日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第36回 岡山県 岡山城

▼PR 素敵な旅あります

 

f:id:sekimeitiko:20210122162156p:plain

岡山城 by:photo-ac

36回目ですね。

今回は、黒い城もしくはカラス城と言えば誰もが思い浮かべる城、そう岡山城です。

岡山城は梯郭式平山城で、別称は(う)城、金烏(きんう)

2006年に「日本100名城」(第70番)に選定されています。

広島城名古屋城とともに日本三大平城です。

 

黒いから、カラスなんですよね……。

だけどカラスと形容されるとあまりきれいではないというイメージがありませんか?

しかし、旭川を挟んで対岸にある後楽園から川越しに見る岡山城の姿は、「カラス城」という名と違って美しいです。

この写真は大層明るく、本当に奇麗ですよね。

f:id:sekimeitiko:20210122163235p:plain

旭川岡山城天守  by:photo-ac

始まりは、宇喜多直家(なおいえ)が国人・金光宗高(むねたか)を謀殺して石山城を奪い、天正元年(1573)から旭川沿いに築城を始めたことです。

天正19年に子の秀家(ひでいえ)が城の大改修に着手。

宇喜多秀家豊臣秀吉五大老の一人です。

そのため秀吉の指導のもと、元々は西側の丘の上にあった天守を東側の丘に作った本丸へと移します。

旭川の流れも変え、総石垣造りの天守を持つ近世城郭としての体裁を整えました。

慶長2年(1597)に完成、名前も岡山と改めます。

関ケ原の戦いの後、小早川秀秋(ひであき)が城主となりますが、わずか2年で断絶してしまいました。

同8年、姫路城主・池田輝政の次男・池田忠継(ただつぐ)が28万石を得て岡山城主となり、岡山藩が出来ます。

その後寛永9(1632)に鳥取城主・池田光政(みつまさ)が一族内での領地替えということで31万5千石で入城、以後池田氏10代が続き明治を迎えます。

 

******************************

 

岡山城へは2000年5月27日に登城しました。

城郭は旭川の屈曲部を巧みに利用した、北・東の守り(後ろ堅固の城)。

川に突き出した丘陵部の最高所に本丸、その西側に二の丸、西の丸、三の丸が取り囲み、各曲輪間には濠が設けられた縄張りです。

本丸部分は内濠で囲んだ中が三段に分かれており、上から殿守(てんしゅ)(本段)・本丸(中の段)・帯曲輪(下の段)、それぞれ石垣で囲んだ厳重な守りとなっています。

白亜に輝く白鷺(はくろ)城として有名な姫路城に対し、烏城と呼ばれる岡山城は黒漆です。

黒漆を塗った下見板張りの壁面に格子窓の白が映える天守が、大変どっしりとした姿ですよね。

鎧をまとった戦国武将を思わせると言われています。

岡山城は、明治になっても旧国宝として存続していましたが、広島城福山城名古屋城とともに昭和20年の空襲で焼失しました。

現在建っているのは昭和41年(1966)に作られた、コンクリート製の外観のみの復元天守です。

▼関連記事

f:id:sekimeitiko:20210122170207p:plain

岡山城   by:photo-ac

天守は五重六階(再建時に地階新設)の複雑な形状になっています。

底面が不等辺五角形で、一重と二重がほぼ同じ大きさの大入母屋の上に方形の小さな楼閣のせた前期望楼型です。

本によっては三重という表記もありますね。

建築学上の詳しいことは分かりませんが、おそらく三重目の入母屋破風と五重目の軒唐破風を「置いたもの」と考えるからでしょう。

 

反対側の一重目の上にも小ぶりな置き唐破風があります。

天守に入るのも直接入るのではなく、先に二重二階の付櫓である塩櫓の一階から二階に登り、天守一階に入る構造です。

複合式天守ですね。

これは宇喜多秀家によって建てられたとされます。

平成8年に屋根が修理され、金箔瓦が再現されました。

天守の石垣にある現在の入口は天守再建時に地階を新設した際につくられたもので、築城当時はないものです。

f:id:sekimeitiko:20210122170425p:plain

高石垣の上にそびえる天守 底辺が不等辺五角形になっている by:photo-ac

f:id:sekimeitiko:20210122173942p:plain

宇喜田秀家築城時の岡山城石垣 by:photo-ac

現存する遺構の月見櫓は、二代目・池田忠雄(ただかつ)のときに建造されました。

外側から見ると二重の櫓ですが、城内から見ると三重になっています。

f:id:sekimeitiko:20210122170543p:plain

月見櫓  by:photo-ac

さらに城内側の三階部分は、吹き放ち構造と呼ばれる壁がない廻縁式です。

東と南が開放されているのは、名前の通り三階で月見の宴を催すため。

写真がないのが残念ですが、この櫓の西と北面の外壁は漆喰が塗られ、一重目には唐破風付きの出格子窓と格子窓、二重目には置き唐破風と、入母屋破風をあしらっています。

その姿の美しさは月見という風流な宴に相応しいものです。

しかし表書院の北西を防御するのが本来の目的で、出格子窓には石落としが備えられた実戦的な櫓になっています。

長野県の松本城の月見櫓とともに、極めて貴重な建物ですよ。

もう一つの遺構・西手櫓とともに重要文化財に指定されています。

 

昭和40年に再建された不明門は平渡櫓門です。

本丸(中の段)から殿守丸への入口に当たる石垣に築かれています。

f:id:sekimeitiko:20210122170835p:plain

不明門     by:photo-ac

下の写真は廊下門。

表書院(表向御殿)と本段御殿を結ぶ廊下の役割を果たしていました。現在の建物は、これも昭和40年に再建されたものです。

f:id:sekimeitiko:20210122171045p:plain

廊下門  by:photo-ac

 

*************************

 

後楽(こうらく)園は、四代目藩主・池田綱政(つなまさ)が、貞享3年(1686)から14年の歳月をかけて作庭した広大な林泉廻遊式庭園です。

水戸の偕楽(かいらく)園、金沢の兼六(けんろく)園とともに日本三大名園と言われています。

大名庭園で、国指定特別名勝です。

広々とした庭の芝生もまぶしく、山陽のおだやかな陽光に相応しい明るい庭園です。

池泉や築山を隔てて、天守を借景に。

彦根城玄宮園と同じですね。

後楽園から見た天守の姿は均整が取れていて優美です。

f:id:sekimeitiko:20210122171316p:plain

後楽園  by:photo-ac

この後楽園は、ただの庭園ではありません。

元和一国一城令武家諸法度が発せられた後も、城郭の改築・拡張が著しく制限されているなかで、屋敷の造園という名目で築かれた出城の築城であったそうです。

岡山城背後の搦手を固め、籠城戦の時には池泉は濠となり飲料水となり、築山は土塁となります。

植えられている植物の多くは食用や薬用に供せられるもので、池泉に架かる石橋にも刀や槍を研ぐ砥石を用いていたと言われています。

いつ戦いになっても大丈夫なように、したたかに準備を怠らなかったと言えます。

大した藩です。

f:id:sekimeitiko:20210122171507p:plain

後楽園から見た天守   by:photo-ac

左側の唯心(ゆいしん)山と言われる小高い山と天守の景観は、後楽園の中でも日本三大名園の名にふさわしい美しさを見せてくれます。

 

最後に発見した美しい景色をシェア!

朝焼けと岡山城です。

f:id:sekimeitiko:20210122172959p:plain

きれいですね~!!  by:photo-ac

岡山城の公式サイトもありますので、載せておきますね。

訪問する前には内容をチェックしてみてください。きっとより楽しめますよ! ↓↓

 

岡山城

・住所:岡山県岡山市北区丸の内2-3-1

・アクセス:岡山駅から路面電車で5分「城下」下車から徒歩で10分

・休業日:年末12/29~12/31

・営業時間:9:00~17:30 入館は17:00まで

 

▼PR

 

 

【参考文献】

平井 聖監『城 6 中国 甍きらめく西国の城塞』(毎日新聞社 平成8年11月25日発行)、日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、全国城郭管理者協議会監修『復元イラストと古地図でみる日本の名城』(碧水社 1995年4月18日第1刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ三』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、石井進千田嘉博『城と城下町』(山川出版社 1999年㋆25日1版1刷発行)版他 

▼PR