
第152回目になりました。
今回は、福井県にある小浜城です。
*小浜城とは?
小浜藩の初代藩主酒井忠勝が完成させた小浜城は、日本海に注ぐ川と海を取り入れた「小浜湾に望む全国でも屈指の水城」(「小浜城跡」パンフレット)です。
別称は、雲浜(くもはま)城。
小浜城の初攻城は、2002年6月1日、筆者の51歳の誕生日でした。
その23年後の2025年7月29日に再攻城してきました。
周囲の景観は、住宅地化が進み変貌していましたが、城址の本丸部分は変化がないように思いました。
*小浜城の歴史(築城から廃城まで)

関ヶ原の戦いで、大津城に籠城して徳川軍として戦った京極高次(きょうごく たかつぐ)は、その戦功により若狭の一国を領し、国主として慶長5年(1600)に入封します。
小浜の地は、古代、中世時代には「府中(ふちゅう)」と呼ばれていたように、若狭の国の中心地でした。
織田信長による北陸支配が始まると、この若狭の守護大名武田氏の居城であった府城・後瀬山(のちせやま)城に、丹羽長秀などを城主として入城させていました。
しかし高次は、港湾都市小浜を望む中世の山城としての後瀬山城では、近世の城郭としては発展が出来ないと考え、領国経営に便利な小浜に、慶長6年(1601)から築城を始めます。
風光明媚な小浜湾の雲浜海岸の、北川が流れ込む河口に、小浜城は築かれました。
南川と江古川も改修して外濠とします。
城の西側が海、東・南・北の三方は川を濠とする天然の要害です。
廃城後の明治から大正年間まで、天守台石垣上には灯台が設けられたように、小浜湾に面した海城だったといえます。
しかし、築城工事は難工事だったようで、高次の後を継いだ京極忠高は、小浜城が完成しないままで、寛永11年(1634)に出雲国松江に転封となりました。

周囲が海と川で囲まれていることが良く分かる絵図ですね。

三代将軍家光の命により、寛永11年に武蔵国川越から12万5千石で入封してきた酒井忠勝は、幕府の許可を得て築城工事を継続します。
江戸幕府からは幕府大工頭・中井正純が派遣され、作事の指揮を取り、寛永13年に三重の天守と小天守が完成しました。
以後、西の丸石垣の修理やあらたにいくつもの櫓、本丸多聞櫓などを建造し、京極高次の築城開始から約40年の歳月をかけ、寛永19年(1642)に大手口造営を最後に小浜城が一応の完成しました。
小浜城は、ほぼ正方形の本丸を濠で囲んで、二の丸、左回りに三の丸、北の丸、西の丸と上の城絵図で分かるように輪郭式の縄張りとなっています。
本丸の西南の隅に下見板張りの三重の天守が築かれたといわれています。
本丸と二の丸に各7基の櫓、三の丸に10基、北の丸に2基、西の丸に4基の櫓を建てていました。
濠には海水が引き込まれた海城でした。
以後、明治まで酒井家が城主を務めています。

三の丸への大手橋と左は寄討櫓(よせうちやぐら)、正面は五方櫓(ごほうやぐら)、右奥が多田見櫓(ただみやぐら)です。
大手門は写っていませんが、左奥にあります。
明治初年に撮影された写真のようですね。
明治4年に、大阪鎮台第一分営を城内に置くことになりましたが、分営建設工事現場から出火、天守を除き小浜城の建物の大部分が焼失しました。
分営設置に反対する旧藩士の放火といわれています。
分営は彦根城へ移転していきました。
*小浜城|現存する遺構・見どころ

天守台の隣に小天守台と書かれた木標のある石垣がありますので、二重櫓のような小天守が築かれていたのかもしれません。
その石垣の端に石垣に挟まれた狭い道(下の写真)がありますが、縄張図にある西櫓跡で門が埋門となっていたのだろうと推測できます。







明治8年(1875)に、本丸址に藩祖酒井忠勝を祀る小浜神社が建立されました。
小浜城は、河川改修により、神社境内の本丸を除く遺構の大部分は失われ、わずかに本丸の石垣だけが遺構として残っています。
本丸東側の石垣は取り払われ、小浜神社の入口となっています。
残りの三方の石垣が現存していますが、本丸を取り囲んでいた水濠はすっかり埋め立てられ、東側は道路となり、その他の部分は住宅地です。
(写真は、筆者撮影)
*小浜城詳細
・アクセス:JR小浜駅より1.5Km
・営業時間:24時間
・休業日:なし
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【参考文献】
平井 聖監修『城 3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、西ヶ谷恭弘編著『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真第図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日発行)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、「福井県史跡 小浜城跡」(小浜市文化観光課)、他
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