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大阪府大東市と四条畷市に跨ってある、飯盛城址に2月28日(2022年)に行ってきました。
ここは令和3(2021)年10月11日に国の史跡に指定されたばかりです。
「続日本100名城」(160番)に選定されています。
別称は飯盛山城、河内飯盛城。
以前から、野崎城址と飯盛城址に行きたかったのですが、その機会がありませんでした。
ところが山登りを趣味としておられる先輩に、数年前から近くの低い山や旧街道などをガイドしながら連れて行ってもらっている月例会があり、今回は野崎観音から野崎城址を経て飯盛城址、四条畷神社のコースをお願いしたのです。
そんなわけで、ようやく念願が叶った久しぶりの山城探訪!
感謝申し上げます!!!
まずは野崎城からです。
人形浄瑠璃のお染・久松の物語で知られる野崎観音(正式には慈眼寺)から野崎城址と飯盛城址を経て四条畷神社へ降りるコースは、ハイキングコースとなっています。
今回も途中で何人ものハイキングをしている方たちに出会いました。
野崎城址へは野崎観音の横から登城します。
城址という表記ですが、周囲には曲輪跡や堀切跡があるようですが、たいした遺構はないと思います。
かろうじて、野崎城址の縄張りや歴史が架かれている説明パネルが設置されているのが救いですね。
野崎城の歴史については分からないことが多く、河内国の北半分の拠点だった若江城の支城として、守護代の遊佐氏の一族が守っていたといわれています。
飯盛城が築城されてからは、飯盛城の出城となったようです。
野崎城は、飯盛城の南西に位置し、尾根続きで防備の手薄な南方を防御。
城は山塊から突き出た尾根の上にあり、眼下の東高野街道ににらみを利かせています。
築城、廃城のついての文献はありません。
おそらく、飯盛城と同じ頃に廃城となったのではないかと推定されています。
ここからの眺望もよく、少し休憩を兼ねて眺望を楽しみました。
野崎城説明パネルより
次は飯盛城址をめざし、七曲りコースを歩きます。
標高約315mの飯盛山の山頂一帯に築かれた飯盛城の南側から攻城です。
随所に上のような説明版が設置されているのはいいのですが、周辺は草に覆われ、年月が経っているので築城当時の形状が分かりづらいですね。
戦国武将・三好長慶(みよし ながよし)は、戦国時代も終わりに近い永禄2年(1559)に畠山高政の重臣であった安見宗房と高政を破り、翌3年に飯盛城に入城します。
長慶は、大坂を中心に四国や瀬戸内、さらには日本海方面まで勢力を拡大し、当時国内最大の力を持った戦国大名でした。
飯盛城からは、大阪平野ばかりか、大阪湾の向こうには明石海峡と淡路島を、そして遠く三好氏の本拠地四国徳島の山影をはるかに望むことが出来たこともあったでしょう。
長慶は、この城から見渡すことの出来る世界を支配します。
将軍や天皇がいる京都を制し、室町幕府13代将軍足利義輝を京都から追放し、政治の実権を握りました。
この山城には長慶だけでなく、多くの家臣も暮らしていたといわれています。
飯盛城には、公家や文化人、宣教師など多くの人々が訪れ、茶の湯や連歌の会がさかんに開かれたらしい。
同時代のキリスト教宣教師ルイス・フロイスの著『日本史』には、「天下を治めていた」、「天下の支配者」などと書かれているとのことです。
長慶は、自らは飯盛城に居て芥川城には嫡男・義興(よしおき)を入れ、周辺の城には親族を配します。
首都の京を含め当時「天下」と呼ばれた畿内に加え、周辺の国々をも治め、三好政権の中枢として飯盛城は機能していました。
飯盛城は、いわば政権が所在する「首都」ともいえるのだったのです。
その意味で、近年「織田信長に先駆けた天下人」と評価されるようになってきています。
長慶は、飯盛城・芥川山城・高屋城を拠点に畿内で勢力の拡大を図っていましたが、永禄6年に一人息子の義興が22歳で急死、翌年長慶自身も病気のためわずか43歳にして飯盛城内で没しました。
しかし、その死は3年間秘。
遺体は御体塚曲輪(ごたいづかくるわ)に安置されたそうです。
大東市のユーチューブ「大東市公式ちゃんねる」にPR動画が公開されています。
飯盛城は、京都から大阪平野を一望できる標高314mの飯盛山山頂を中心に、尾根筋にいくつもの曲輪を置いた巨大な山城です。
飯盛城は、三好長慶の居城でした。
築城は16世紀半ば。
河内の守護・畠山氏の家臣である木沢長政が築城したと考えられています。
長慶は、永禄3年(1560)に高槻市にある芥川山城から入城します。
入城すると直ちに大規模な改修工事を実施、現在の形の城郭となりました。
北から御体塚郭、高櫓郭、千畳敷郭などの曲輪が尾根筋に連郭式に配され、大小合わせて約70近くあったようです。
四条畷市と大東市の両市で、平成28年から飯盛城址の総合調査を行いました。
その結果、城域が東西400m、南北700mで、西日本有数の規模であり、城域のほぼ全域にわたって石垣を多用した戦国時代の山城であったことが判明しました。
また、大規模な造成を行い、礎石建物を建築。
屋根は瓦で葺かれていた可能性が高いこともわかってきました。
石垣、礎石建物、瓦の3つの要素が本格的に城郭に取り入れられるのは、一般的には信長の岐阜城(永禄10年・1567)、安土城(天正4年・1576)からとされています。
従って、飯盛城は信長の岐阜城、安土城に先立って3つの要素をもつ城郭だったということがわかってきました。
その意味において、戦国時代の政治・軍事を考える貴重な城址と考えられ、国の特別史跡と指定されたようです。
凄い城址です。
天正4年(1576)頃に、飯盛城は織田信長によって破却されます。
展望台のある本郭からの眺めです。
天気の良い日は淡路島や比良山地まで見えるそうです。
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楠木正行とその一族や武将を祀る四条畷神社は明治23年(1890)に創建されています。
南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた楠木正行は、父の正成(まさしげ)の嫡男でこの時代を代表する武将・名将です。
四条畷駅から少し西に行ったところに墓所があるので参拝してきました。
大きな墓石の字は大久保利通が書いたものだそうです。
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後日の5月29日、改めて四条畷市立歴史民俗資料館にいってきました。
上の続日本100名城スタンプは資料館に置いてあったものです。
国の史跡指定の後の「三好長慶生誕500周年記念プレイベント 第36回特別展」は終わっていましたが、資料館の方が親切にそのときのパンフレットを下さったので、記事を書くときの参考にしました。
感謝して記しておきます。
(写真は筆者撮影)
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【参考文献】
財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第1刷発行)、「関西の城あるき」(京阪神エルマガジン社 2019年10月7日初版発行)、「三好長慶生誕500周年記念プレイベント 第36回特別展 『天下の支配者』三好殿―考古学からみた天下人三好長慶の軌跡と飯盛城―」パンフレット」(四条畷市立歴史民俗資料館 令和3(2021)年10月5日発行)他
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