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コロナ対策は万全にしながら、家族とぶらっと城址へ!
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*有岡城址とは?
有岡城は、猪名川の西岸、伊丹段丘東縁部の一角に、伊丹氏によって南北朝時代に築城されました。
文明4年(1472)に改築されるまでの伊丹城が、日本最古の天守台を持つ平城だと言われていますよ。
伊丹氏を滅ぼして入った荒木村重は、城の大改修とともに伊丹の町の周囲を堀と土塁で囲む「総構え」を構築します。
城である「主郭部」と家臣団の住む「侍町」、そして町人が住む「町屋地区」を明確に分けました。
主郭部は伊丹段丘が東に突出した位置に設置。
東側を流れる伊丹川との間は崖になっており、さらにその東側には猪名川が流れる天然の要害です。
西と南側に人工の濠を設け、北の端に「岸の砦」(現在は猪名野神社付近)、西の端には「上臈塚(じょうろうづか)砦」(同墨染寺付近)、「鵯塚(ひよどりづか)砦」(同ひよどり広場付近)の三つの砦を築いて守りを固めています。
有岡城の城下町は近世城下町の初源的形態と言えるもので、有岡城の総構えは日本初です。
村重の町造りは城下町の支配の徹底と総構えによって、防御力を一段と高めるものでした。
*いざ、JRで出発!
2月の祝日(天皇陛下誕生日おめでとうございます)の昼下がり、コロナ禍でほぼ1年行楽にはでかけていない娘と孫を連れ、有岡城址へ行くことが決定。
JRの電車の中は空いていて、温かい日が差し込んでずーっと乗っていれば眠ってしまうような空間。
もうすぐ春だ~と思いながら乗っていると、伊丹駅に到着です。
ホームから改札口を出たところで左へ。
そこの出口には、有岡城址の文字がありました!
本当に駅前にあるんですよね。
電車の窓からも見えますが、駅の目の前にドーンとあります、小高い山のようなもの。
これが、有岡城址でございます。
駅への連絡通路のところにあった旗が可愛かったので写真を撮りました。
荒木村重が「村重たみまる」というキャラに…( *´艸`)
官兵衛の説明が「ロード・カンベエ」なのもちょっと笑えます。
エスカレーターを降りて狭い道を渡ったら、石垣が目の前にそびえていました。
とは言え、低目の石垣ではありますが。
有岡城址の入り口でとりあえず記念写真。
この切込接ぎの石垣はもちろん築城当時のものではありません。
この写真の右側に階段があり、石垣の上の広場へ登ります。
上がるとこんな空間です。
本丸のあった中心部ですね。
割と広いなと感じました。
井戸や礎石建物跡、古い石垣、荒木村重についての説明石板などがあります。
祝日だったこと、天気が良かったこともあり、他にも城址をみにきたと思われる親子などがいました。
子供たちが恐らく堀だっただろう部分でバドミントンやボール投げなどをして遊んでおり、ほのぼのとした良い場所でしたよ。
*有岡城址と荒木村重
はい、荒木村重、約300年もの間この地を支配していた伊丹氏を滅ぼし、有岡城を作って町を整備した武将ですね。
彼は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、利休十哲の一人でもあります。しかし、嫌われ者度はナンバーワン。
妻子や家臣をほっておいて自分だけ逃げた、武士の風上にも置けないとんでもない武将と言われていますね。
そうじゃない、という説もありますよ。
村重は、父とともに「摂津の三守護」の池田城主・池田勝正に仕えていましたが、やがて「池田二十一人衆」の一人となるほどの実力を持つようになりました。
優秀な人ではあったのでしょうね。
元亀元年(1570)、池田氏が信長の家臣として各地を転戦していたころ、池田氏の家臣の中で反信長派が信長派の二人を殺害し、勝正を追放するというクーデターが発生。
その混乱に乗じて村重は池田を手中に収めます。
その後、高槻の和田氏や茨木の茨木氏を滅ぼし、信長の配下となって室町幕府滅亡に功を挙げ、信長から「摂津守」に任じられました。
彼は着々と出世していきます。
天正2年(1574)に村重は、信長に抵抗する最後の国人・伊丹親興の伊丹城を攻め落としました。
結果、池田城は廃城です。(国人とは、守護の家来として市町村ぐらいの範囲を支配する武士)
村重が池田から伊丹に居城を移したはっきりとした理由は分かりませんが、大きな理由として地理的な要因があると考えられています。
伊丹は、池田と違って西摂津平野の中心に位置していて、当時の幹線道路西国街道に接し、大阪湾も比較的近くでした。
便利で重要な場所だったわけですね。
そして彼は、配下の摂津国の武将を要所に配置していきます。
・茨木城に従兄弟の中川清秀
・南の尼崎城には村重の嫡男・村次
・西端の花隈城には荒木村正
これらのことから考えて、村重は、信長と敵対していた毛利氏と海上ルートでつながり、信長を念頭に置いて摂津の防御を固めるために有岡城へ移ったのではないかと言われています。
村重は信長から「摂津守」に任じられるほど厚い信任を受けていたにもかかわらず、本人は信長を信頼していなかったと言えますね。
天正6年(1578)、村重は信長と敵対していた本願寺と手を結び、信長に謀反を起こします。
村重の謀反を聞いた信長は、はじめ村重の謀反を信じませんでした。
かーなり信用していたのでしょうね。
このとき、村重を説得にいった黒田官兵衛が有岡城の土牢に一年も監禁されています。
非常に有名な話ですよね。
信長は有岡城を討伐するときに、村重が廃城にした池田城を修築して陣を敷きます。
有岡城の総構えは、信長の攻撃を約1年持ちこたえています。
おお、凄い。頑張りましたね。
しかし、籠城も限界だと思った村重は、夜半少数の部下を引き連れて嫡男・村次のいる尼崎城に行きます。
これは毛利に助勢を嘆願するためと言われていますね。
しかし、待てど暮らせど援軍は来ませんでした。
主のいなくなった有岡城の運命は無残なもので、まずは町に火が放たれて城下町全焼。
城も落ちます。
落城後城に残された妻子や家臣は、尼崎七松で磔の刑にかけられました。
郎党皆殺しです。
見せしめもあるため、かなりむごい始末だったようです。
処刑された婦女子を悼む塚が、墨染寺というところにありますよ。
ところが自分だけ生き残った村重(嫡男は生きていますが)は、信長の死後、豊臣秀吉に許されて秀吉の茶人として天正14年(1586)、52歳の天寿を全うします。
52歳は若いですが、この時代、この生涯を考えれば長生きしたと言えるでしょう。
しかし、なんということでしょうか!
自分だけ生き残って天寿を全うするなんて…。
そんなわけで村重は評判が良くないのですね。
ちなみに、信長の処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫の一人が、江戸時代初期に絵師として活躍し、浮世絵の祖と言われる岩佐又兵衛だと言われていますよ。乳母グッジョブ!!
*戦国の後の有岡城
有岡城は、天正8年(1580)信長の家臣池田信輝の嫡子・之助(ゆきすけ)が入城しますが、天正11年には美濃へ移り、伊丹は秀吉の直轄領となります。
その後大名は置かれず、いつしか城は放置され、江戸時代には地元の人々から「古城山」と呼ばれるまでになりました。
城跡は明治26年(1891)鉄道敷設のために城郭の東側が破壊。
その後もJR伊丹駅前の整備のために破壊されてしまい、当時の面影は全くありません。
本当に小さな城址なので、期待していくとがっかりしてしまうかもしれませんが、ぜひ一度行ってみてくださいね。
町の北にある「岸の砦」、南にある「鵯塚」、西にある「上臈塚」も一緒に巡ってみましょう。
そして、江戸時代には珍重された伊丹のお酒「白雪」をお土産にどうぞ。
【参考文献】
池田市教育委員会『池田学講座』(池田市 池田市教育委員会 平成21年7月1日3刷発行)池田市立歴史未續資料館『町を放火候なり―信長 池田城合戦と畿内制圧―』(池田市立歴史未續資料館 平成12年10月20日 発行)、伊丹市ホームページ、伊丹市観光パンフレット他
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