
「気ままにぶらっと城跡へ」の第41回目は、鳥取城の再建された中ノ御門の紹介です。
鳥取城は、戦国時代の山城址が遺構として残っている久松山(きゅうしょうざん)の山上ノ丸(さんじょうのまる)と、池田光政によって整備された麓の山下ノ丸(さんげのまる)で構成されています。
難攻不落の防御力を誇り、山頂からの眺望の良さから「日本(ひのもと)にかくれなき名山」(鳥取城パンフレットより)と言われ、織田信長から「名城」と評された鳥取城へ、24年ぶりに行ってきました。
今回は、山上ノ丸へは行かず、中ノ御門を中心に探訪しましたが、新しい発見もありました。
鳥取城中ノ御門へは、2026年3月20日に探訪しました。
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*鳥取城中ノ御門とは?

元和7年(1621)に、池田光政によって造られた中ノ御門は、享保5年(1720)の大火で焼失しましたが、その年のうちに再建されました。
中ノ御門は江戸時代を通じ、鳥取城山下ノ丸への大手門として存在していました。
明治になって廃城とともに取り壊されたのですが、幸い解体直前に撮影された古写真が残っていたのですね。
その残っていた写真などを手掛かりとして、令和元年から復元工事を始め、令和3年3月に完成!
いつか見に行きたいと思っていましたが、今回ようやくその願いがかないました。

鳥取藩の支藩である鹿野藩の鹿野城址を見学して、翌20日まっすぐ大阪に帰ろうと思っていましたが、鳥取駅近くで偶然、県立博物館で「とっとりの藩と城」展が開催されていることを発見!
まず博物館へ行きました。
博物館の展示で、鳥取藩と城ついて、知らないことをずいぶん学習できましたよ。
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このビデオで「大手門」と表記されているのが中ノ御門です。

低い高麗門を入ると、小さいながらも内桝形になっています。
この写真の左側に立派な櫓門があります。
つまり、擬宝珠橋を渡って高麗門を入ると、桝形を右へ90度曲がって櫓門を入ることになるのですね。



新しく再建された中ノ御門には、写真で分かるようにまったく矢狭間や鉄砲狭間が造られていません。
雁木があるということは、当時は桝形に入った敵兵を土塀から攻撃するためだと考えられます。
そうすると攻撃用の狭間が造られていたと考えられるのですが、なぜか復元された土塀には狭間が造られていません。
関ケ原の戦いが終わった後なので、池田輝政は、狭間は必要ないと考えたのでしょうか。
しかし、大坂城には豊臣秀頼がいて、豊臣恩顧の大名は西国を中心にたくさんいたはずなのですが……。
*登石垣を発見!

鳥取県立博物館を見学して、復元された西坂下御門をとおり、右膳ノ丸から二ノ丸に行こうとすると、なんと登石垣があるではないか。
登石垣は、愛媛県の松山城(未見)と彦根城ぐらいしかないものと思っていたので、驚きました。
2月に彦根城で、登石垣の実物を初めて見たばかりですよ。
パンフレットによると、嘉永2年(1849)に二ノ丸が北西に拡張された時に築かれたらしいです。
「幕末のものとしては国内唯一の登石垣」とパンフレットに書かれていました。
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*鳥取城跡の写真





「日本100名城」スタンプは、県立博物館に置いています
(写真:筆者撮影)
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【参考文献】
パンフレット「国指定史跡 日本百名城 鳥取城跡」(鳥取市教育委員会事務局文化財課 2025年6月26日改定)、県立博物館「とっとりの藩と城」展示物、鳥取城内説明パネル、他