日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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気ままにぶらっと城跡へ㊵鳥取県の鹿野城へ行ってきた

鹿野城外濠と鹿野城跡がある御城山    by:photo-ac

「気ままにぶらっと城跡へ」の第40回目は、鳥取市の鹿野(しかの)城です。

 

 

*鹿野城とは?

鹿野城は、因幡国(いなばのくに 鳥取県東部)と伯耆国(ほうきのくに 鳥取県中西部)を繋ぐ交通の要衝に築城された、中世から戦国時代の山城です。

別称は、志加奴(しかぬ)城、王舎(おうしゃ)です。

王舎城の名前は、城主・亀井茲矩(これのり)が、インドの仏跡にちなんで名付けたもので、城下は鹿野苑(ろくやおん)と呼んでいます。

2026年3月19日に初登城しました。

 

*鹿野城の歴史

鹿野城跡説明板

鹿野城は、築城年代は不明ですが、因幡の守護山名氏の武将志加奴(しかぬ)氏代々の居城でした。

戦国時代は、「因伯仕切りの城」として重要視され、因幡の天神山城の山名氏と出雲の尼子氏、後には安芸の毛利氏との争奪戦が繰り広げられた城です。

天文12年(1543)に出雲の尼子晴久が因幡・伯耆へ侵攻してきます。

城主の志加奴入道は籠城して戦いますが、討ち死にしてしまいました。

次に、毛利氏が尼子氏を滅ぼし、因幡へ侵攻してきます。

これに対抗するため、天神山城主・山名豊成(とよしげ)は、鹿野城に移り守りを固めますが、永禄6年(1563)に、毛利方の鳥取城の武田高信に毒殺されたと伝わっています。

天正8年(1580)、織田信長に中国攻めを命じられた羽柴秀吉は、鳥取城攻めの前に、まず鹿野城を攻城して、鹿野城を落城させました。

尼子氏滅亡の後、尼子氏再興を願う山中鹿介に従っていた亀井茲矩は、鳥取城攻めの秀吉に従い、鹿野城を孤軍死守して軍功をあげます。

その戦功により、天正9年(1981)に亀井茲矩が13,800石を領して鹿野城主となったのです。

亀井茲矩像(「鹿野城跡説明板」より)

関ケ原の戦いでは、亀井茲矩は、因幡で唯一徳川方に属して戦いました。

そして、戦後には加増されて38,000石の大名に。

亀井茲矩は、近世城郭へと鹿野城の大改修を行い、城下町の整備・拡大をし、治水、干拓、殖産興業、御朱印貿易など、広い分野で手腕を発揮しています。

亀井茲矩は、江戸時代初期、御朱印貿易によって世界と交易を行った日本でただ一人の大名でした(九州を除く)。

そのためか、亀井茲矩は、居城・鹿野城を、インドの仏跡にちなんで「王舎城」、そして城下町を、釈迦が悟りをひらいて初めて説法をした土地の名から「鹿野苑」などと、インド仏教に関係した名前をつけています。

山や川の名前も同じくですね。

また、城の絵図などが残っていないため詳細は不明ですが、「オランダ櫓」や「朝鮮櫓」の呼称をもつ、日本で唯一の外国名の櫓を築いたようです。

元和3年(1617)の、2代目の亀井政矩(まさのり)のとき、津和野へ転封となりました。

鹿野城は一国一城令により、天守のある山上部分が破却。

鹿野は鳥取藩池田家の所領となり、鳥取城主池田光政の家老・日置忠俊が山麓の屋敷に入いりましたが、寛永5年(1628)に火災で焼失、やがて廃城となりました。

現在、城跡は鹿野城跡公園(一部が鹿野中学校の敷地)となり、遺構として天守台の礎石や中国地方でも珍しい内濠と外濠が遺構として残っています。

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「王舎城図」(「鹿野城跡説明板」より)

「王舎城図」(「鹿野城跡説明板」より)

 

 

*鹿野城:現在の遺構

鹿野城は、標高約151mの御城山(妙見山ともいう)山頂に天守台を置き、北側の斜面に一二三(ひふみ)段式に二の丸、三の丸、四の丸と曲輪を配した縄張りとなっています。

そして、山麓に御本丸、出丸(現地では二の丸と表記)などを置いています。

山城と麓の二つの部分で構成された城です。

山頂の天守曲輪には天守台が築かれ、三重の天守が建造されたようで、その礎石が残っています。

麓の本丸と現在は鹿野中学校敷地となっている二の丸は、濠に囲まれていますね。

登城口に設置されている説明板

鹿野城登り口に設置されている案内板

天守台跡

天守台跡 礎石が残っている

天守台跡からの眺望 外濠が見える

天守台からの眺望 霞んで見えづらいが遠くに日本海が見える

城山神社

城山神社は、江戸時代までは妙見社と呼ばれていました。

国土擁護、領民安楽の妙見菩薩(北斗七星)を祀っていたようですが、現在は須佐之男命、大国主命、亀井茲矩命が祀られています。

本殿は、安政6年(1859)に建造されたとのことです。

西の丸跡

西の丸跡の土塁

本丸跡 現在はグラウンドとして使われている

内濠 上は本丸跡

外濠と二の丸の櫓台

鹿野城二の丸にある鹿野学園王舎城学舎

城下の中心地にある鹿野山幸盛寺山門

鹿野山幸盛寺は、亀井茲矩が、尼子氏再興を果たせなかった山中鹿介の菩提を弔うために、現在地に建立した寺です。

墓地に鹿介の墓がありますよ。

山中鹿介の墓と「願はくば 我に七難八苦を與へ給へ」の石碑

鹿野城下町には、亀井茲矩によって鹿野城築城後整備され、道幅や交差点などはほぼ当時のままの形で残っています。

すごいですよね。

その名残が、「Ⅼ字路、T字路」で、外部からの進入者があったとき、行き止まりに見えたり、城とは反対側に向かわせるような造りになっています。

亀井茲矩が造った水路が、現在も町のなかを縦横無尽に流れていました。

Ⅼ字道路

 

(写真: by:photo-ac の表記のあるタイトル写真以外は筆者撮影)

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【参考文献】

小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、パンフレット「鳥取市指定史跡 鹿野城跡」(しかの観光プロジェクト委員会 2021年4月1日発行)、「鳥取市鹿野往来交流館童里夢」、「鳥取市観光サイト」他

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