
「気ままにぶらっと城跡へ」の第38回目は、四国遍路4回目結願の前に攻城してきた香川県の引田(ひけた)城です。
*引田城とは?
引田城は、播磨灘の要衝の地引田港の北側に岬状に突き出た標高82mの城山山頂に築かれた山城で、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて阿波と讃岐の国境を守った城です。
豊臣秀吉から讃岐国を与えられた生駒親正(ちかまさ)は、はじめ引田城に入りましたが、領国経営に不向きなため、高松城を築城し、引田城はやがて廃城となりました。
引田城は「続日本100名城」(第177番)に指定され、国の史跡にも指定されています。
引田城へは、2025年10月28日初攻城です。
*引田城の歴史と写真で見る現状

引田城は、屋島城などと同時期に築かれた朝鮮式山城が前身のようです。
永正年間(1504~21)には、信濃の国から入った四宮右近(しのみや うこん)が大内氏の家臣寒川(さんがわ)氏に属して城主となり、引田城を修築します。
元亀2年(1571)に、阿波の三好長治に攻められ落城。
その後、三好氏の家臣矢野駿河守が入城しました。
天正5年(1577)になると、矢野氏は阿波に引き上げ、引田城には城主がいなくなります。

土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が讃岐国へ攻めこんでくると、天正11年(1583)に、羽柴秀吉は淡路国洲本城主の仙石秀久(せんごく ひでひさ)を派遣しました。
仙石は引田城に入ります。
しかし、長宗我部軍と仙石軍による引田合戦で仙石軍が破れ、仙石氏は小豆島に退却することに。
長宗我部氏は、その後土佐一国へと追いやられ、天正15年には讃岐国を与えられた生駒親正が引田城に入城します。
生駒氏は、引田城が讃岐国の東に偏り過ぎているため、ほどなく引田城から讃岐の中程にある聖通寺(しょうつうじ)城に本拠を移します。
その後、生駒氏は高松城、丸亀城を築城しますが、引田城は、国境を守る城として引き続き重視されました。
引田城は、その後元和元年(1615)の一国一城令で廃城になっています。
大正末期から昭和初期(1924~30)頃には遊歩道や展望台が整備され、引田城址がある城山が城山公園となりました。
現在の登山道は、その時整備されたもので、築城時の城道ではありません。

引田城は、播磨灘に岬のように突き出た城山全体を城域に取り込み、三方が海に面した断崖の上に、谷を挟んでU字状の尾根の上に曲輪を置く縄張りでした。
玄関谷から大手道と推定される登城道をのぼり、北二の丸、南二の丸、本丸、東の丸の四つの総石垣の築かれた曲輪を、尾根を削平して配置。
貯水池である化粧池も整備しています。
発掘調査により、曲輪跡から礎石や多くの瓦が出土していることから、瓦葺きの礎石建物が建てられていたことが明らかになっていますよ。
これらの築城技術は、在地領主が築いた県内の他の城郭の石垣の高さや規模とは格段の違いがあり、織田・豊臣方勢力によって築かれた織豊系の城郭の特徴がみられるとのことです。
遺構の野面積みの石垣は、生駒氏が築いたものと考えられています。








北二の丸下段の自然石を緩やかな傾斜で積み上げた野面積みの高石垣は、生駒氏時代に築かれたと考えられています。
県内最古に分類される石垣だそうです。





このことで、引田城が瀬戸内海の海運と防衛のネットワークを意識して築城されたことがわかりますね。


城の修復とともに引田の城下町がつくられ、整備されました。
引田は、播磨灘の要衝・国境付近の城下町という軍事上・経済上の拠点に立地していて、碁盤目状の町割りや地名に城下町の名残をとどめています。


(写真撮影は筆者)
【参考文献】
公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、「―播磨灘を望む城―引田城跡パンフレット」(東かがわ市教育委員会 生涯学習課 2025.3)、『別冊歴史読本 入門シリーズ 日本城郭大事典』(新人物往来社 1997年6月27日発行)、現場の展示説明パネル、他