
「気ままにぶらっと城跡へ」の第33回目は、三重県鈴鹿市にある神戸(かんべ)城です。
神戸城は、織田信長の三男・織田信孝(のぶたか)が築いた城として有名で、北伊勢の中央平野部に築かれた平城です。
別称は本多城。
初攻城は、2003年10月26日で、この2025年3月10日に再攻城してきました。
*神戸城の歴史と見どころ

神戸城は、天文年間(1532~55)に、伊勢亀山城主である関氏の一族である神戸友盛
(かんべ とももり)によって創築されたと伝わっていますが、明らかではありません。
永禄11年(1578)に、織田信長が神戸城を攻撃しました。
しかしその後、織田信孝が神戸家の養子となることで和睦となりました。
天正8年(1580)に織田信孝は神戸城を拡張し、五重の天守や殿舎などを建造します。
城地から金箔瓦が発見されているので、壮麗な建物であったといわれていますよ。
その後、織田信孝は岐阜城に移り、神戸城には小島兵部が入ります。
続いて林与五郎、生駒親正(ちかまさ)、織田信雄の家臣の滝川雄利(かつとし)、水野
忠重、ふたたび滝川雄利が城主となるなど、城主が次々と替わりました。
文禄4年(1595)には、天守が桑名城に三重櫓として移築されました。


関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601)に、一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり)が5万石で城主となります。
しかし、寛永13年(1636)に直盛が伊予国西条に転封すると、この地は天領となり、四日市代官の支配地となりました。
神戸城は破却され、櫓などの建物は桑名城や伊勢亀山城に移築されたといわれています。
慶安3年(1650)に、石川総長(ふさなが)が新たに1万石で入封しました。
石川氏は3代続きましたが、城ではなく陣屋を建造したと思われます。
享保17年(1732)には、膳所城主本多康将の二男忠恒の嫡男である本多忠統(ただむね)が、河内国西代から1万石で入封。
本多氏は、延享2年(1745)には5千石加増され、15,000石で明治を迎えました。

本多忠統は徳川幕府の許可を得て、延享3年(1746)から寛延元年(1748)にかけ、あらたに神戸城を築城します。
小高い丘状の本丸、二の丸、三の丸、西曲輪、南曲輪を設けた縄張りでした。
本丸の西北隅に天守台が築かれています。
忠統は天守を建造せず、二の丸に御殿と二重櫓、太鼓櫓を建て、三の丸に大手門や一重櫓を建て、大手橋を設けました。
現在残っている神戸城は、本多忠統の時代のものです。


上の写真でも分かるように、神戸城の天守台石垣は大小さまざまな石を野面積みで積み上げたものです。
これでよく崩れないものだと感心しますね。
少し膨らんできているところもありますので、鈴鹿市は、これからは注意を払う必要があると思います。
隅部は初期の算木積みとなっています。


天守が再建されなかった神戸城で、天守の代用だったと考えられる二の丸の二
重櫓です。
明治初期の写真で、壁などが崩落して荒廃した姿を見せていますね。
しかし、千鳥破風や軒唐破風がある美しい姿の櫓であったことがわかります。




明治の廃城後、建物は払い下げられ取り壊されましたが、高麗門形式の大手門は四日市市顕正寺山門、太鼓櫓は鈴鹿市蓮華寺鐘楼として移築され、現存しています。
二の丸、三の丸跡は神戸高校となり、本丸跡と西曲輪跡が神戸公園となっていますよ。
訪れた日はお天気も良く暖かかったので、何組かの家族連れが敷物のうえに坐って歓談していました。
天守台、本丸周辺の内濠、北側の外濠や土塁の一部が遺構として残っています。
(写真は筆者撮影)
*神戸城詳細
・住所:重県鈴鹿市神戸五丁目10
・営業時間:24時間
・休業日:なし
【参考文献】
平井聖監修『城 4 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12
月25日発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出
版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』
((講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、小和田哲男監修『ビジュ
アル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日 第1版第1刷発行)他
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