日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第73回 佐賀県 唐津城

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73回目は佐賀県唐津城を紹介します。

唐津城は、松浦(まつら)川の河口に半島のような形で突き出た標高約44mの満島(まんとう)山の山頂に、本丸が置かれた平山城です。

唐津城は浮城とも言われていますね。

唐津湾に突き出した城の姿がまるで海に浮かんでいるように見えるからです。

唐津城の別称は舞鶴、「続日本100名城」(第185番)に選定されています。

私は2002年11月9日に登城しましたが、それ以前にもそれ以後も探訪しています。

 

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唐津城   by:photo-ac

唐津の名は、古代中国の『魏志倭人伝』に末盧(松浦 まつら)国の名前で記され、韓や唐へ渡る最短のみなと(津)だったところからきているそうです。

中世は松浦党が活躍、戦国時代は波多氏が治めていました。

豊臣秀吉九州征伐後は、家臣の寺沢広高ひろたか)8万3000石の領地となります。

唐津城は、唐津藩の初代藩主・寺沢広高によって、慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて築城されました。

寺沢は、関ヶ原の軍功により天草4万石を加増され、12万3000石の大名になります。

その石高に相応しい規模の城郭にするべく、廃城となった秀吉の肥前名護屋城や岸岳(きしだけ)山頂にあった岸岳城から城の解体建材を運んできて転用したそうです。

築城にあたっては、九州の諸大名の協力(助普請)を得ています。

今も肥後堀、薩摩堀、佐賀堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名前で残っていますよ。

しかし、2代目の寺沢堅高(かたたか)は、島原・天草一揆の責任を問われ、領地天草4万石を没収されます。

堅高はこれを気に病んで発狂しついには自害してしまいました。

跡取りのいない寺沢氏は断絶となります。

唐津から離れた領地である天草を加増されたことが、仇となってしまったのですね。

寺沢氏の後、キリシタン対策もあって、大久保氏など譜代大名が入れ替わり、5氏18代を数え、小笠原長国(ながくに)で明治維新を迎えました。

なんとも落ち着かない藩主の交代で、領民は呆れ果てていたでしょうね。

そんなに頻繁に藩主を変えた理由はなんだったのだろうか、知りたくなります。

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正保城絵図「肥前国唐津城廻絵図」(『城 8巻 九州・沖縄』より)

唐津城は最高所に本丸を置き、その南西隅部に天守台を置いていました。

一段下がって二の曲輪、山麓に腰曲輪を巡らせています。

そして西側には二の丸、さらにその西側に三の丸を置くという連郭式縄張りでした。

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縄張り図   by:photo-ac

本丸の天守台や櫓台は積まれましたが、塁上に建物がならぶことはありませんでした。

本丸から玄界灘や松浦湾が一望できるので、天守や櫓をあげる必要はなかったというのが理由だそうです。

その代わり、中腹の二の丸や海岸から城下町方向に造られた三の丸には計31基もの櫓が立ち並んでいました。

海に面した腰曲輪には高石垣を築き、満島山の東側を掘削して人工河川として区切ることで防御力を高めています。

唐津城の特色は、総構えと呼ばれる城下町を囲む周囲4㎞にも及ぶ外濠が廻っていたこと。

もう一つは、三方が海であり、一方は海水を引き入れた濠で町家を囲む大要塞都市を形づくっていたことです。

外様の大大名がひしめく九州にあって、徳川幕府の拠点の城でもありました。

この城の別称が舞鶴城であるように、本丸を頭として東に虹の松原、西に妙見松原が両翼を広げた美しい姿となっています。

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手前が虹の松原    by:photo-ac

右羽に例えられる虹の松原は、広高が農作物を海風から守るために松を植えたものですよ。

現在も防風林の役目を果たしているだけでなく、その美しい景色は唐津の観光名所として日本三大松原のひとつになっています。

ちなみに三大松原とは、静岡市三保松原敦賀市気比(けひ)の松原、この虹の松原です。

広高は、唐津城のあと天草に支城として富岡城を築城しています。

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空から見た天守と二重櫓   by:photo-ac

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天守と多聞櫓     by:photo-ac

唐津城にはもともと天守はなかったそうです。

寛永4年(1627)の隠密探索書によると、唐津城には天守なしと記録されています。

江戸時代の初めの頃は、隠密が諸国の城郭を探っていたのですね。

この後、徳川幕府は正保元年(1644)に全国の大名に詳細な城絵図・国絵図の提出を命じて、城の縄張りなど防御の形が分かるようにします。

現在の天守は、昭和41年(1966)に天守台跡に鉄筋コンクリート造りで、名護屋城絵図に描かれた天守をイメージして造られた模擬天守です。

五重五階地下一階建ての、望楼型連結式天守ですね。

二重櫓と石垣に沿った長い多聞櫓を持っていますが、これらはいずれも模擬建築物。

一重目に軒唐破風の出格子窓をつけ、二重目には大きな入母屋破風、そして三重目に小さな千鳥破風、四重目に軒唐破風をつけています。

白漆喰総塗籠の装飾性に富んだ天守の姿ですね。

おまけに最上に朱塗りの高欄を廻らせた、立派な桃山時代風の天守となっています。

この天守からの眺めは大変すばらしいものですよ。

内部は、郷土博物館として使われています。

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天守から見た景色 唐津市内と向こうに虹の松原   by:photo-ac

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茶室櫓 下が門になっている   by:photo-ac

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肥後櫓   by:photo-ac

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唐津城と花火   by:photo-ac

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公園案内図  by:photo-ac

本丸跡は舞鶴公園となっています。

本丸へは二の曲輪へまず168段、本丸へはさらに53段の石段を上らないといけませんが、左側にある帯曲輪からの斜行エレベター(有料)で簡単にあがれます。

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唐津神社     by:photo-ac

11月に行われる唐津の名物行事「唐津くんち」は、かつての三の丸にある唐津神社の秋の例大祭

14台の曳山が繰り出して町中が賑わいます。

平成27年ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

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唐津くんち」の曳山   by:photo-ac

 

唐津城詳細

・住所:佐賀県唐津市東城内8番1号

・アクセス:唐津駅から徒歩で20分

・営業時間:9:00~17:00 /入館は16:40まで/季節により開館時間の変更あり

・休業日:12月29日~12月31日

 

リンク

 

 

【参考文献】

平井 聖監修『城 8 九州 沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ三』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)他

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