別称は雲霧(くもぎり)城で、2006年に「日本100名城」(第42番)に選定されています。
独立した丘陵と川を利用した平山城です。
掛川城と言えば、関ヶ原の戦いにおいて、元は豊臣方であった山内一豊(やまうち かつとよ)が徳川家康にこの城を差し出した話は有名ですね。
関ヶ原の勝利の後、山之内一豊は家康にその軍功を認められ、土佐20万石の国主として移封しました。
そのさい、掛川城に倣って高知城の天守を築いたと言われていたため、掛川城復元のときには逆に高知城をモデルにしています。
5万石から20万石の国主としての移封ですからもちろん大出世には違いありませんが、私は元豊臣家臣であった勇将山内一豊を体よく流刑の地土佐に追いやったと思っております。
掛川城は、戦国時代の文明年間(1469~86)に駿河守護大名今川氏が遠江(とおとうみ)支配の拠点として、重臣朝比奈泰煕(あさひな やすひろ)に築かせたことに始まります。
桶狭間の戦い(1560)の後、立て籠もった今川氏を和睦により開城させた徳川家康が、重臣の石川家成(いしかわ いえなり)を入城させます。
目的は、甲斐からの武田氏侵攻の防御拠点にするためですね。
全国平定を達成した豊臣秀吉は、天正18年(1590)に掛川城へ山内一豊を5万石で移封させました。
一豊は秀吉のもとで培った建築技術を生かして大規模な修築工事を行います。
掛川城を本丸、二の丸、三の丸等の諸曲輪を内堀・中堀の内側に配置して、ほぼ梯郭式縄張りの近世城郭に改造。
そして、このとき初めて天守を建造しました。
しかしその後、一豊が創建した天守は崩壊しています。
後に元和(げんな)5年(1619)に入府した松平定綱(まつだいら さだつな)が、三重の天守を再建しました。
一豊の土佐転封ののちは、幕藩体制下で実に11家26代もの城主の居城として繁栄。
貴族的な外観をもつ天守の美しさは「東海の名城」と謳われていました。
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掛川城へは1995年12月25日に登城しました。
現在の天守は、平成6年(1994)年に高知城をモデルに、わが国で初めて日本古来の建築法の木造で復元された天守です。
掛川市民の熱意と努力が実を結び、140年ぶりに再建されました。
掛川城の天守は、白漆喰総塗籠の三重四階建て古式望楼型複合式復元天守です。
二重目に軒唐破風出窓が装飾として用いられ、最上階には高欄が設けられています。
堀は、本丸を囲む三日月堀・十露盤堀(そろばんぼり)・松尾堀などが内堀であり、城外には外堀をめぐらせています。
かつて時を知らせる大太鼓を置いていた太鼓櫓も数少ない現存建築物です。
昭和29年(1954)に三の丸から荒和布櫓(あらめやぐら)のあった位置に移築されています。
掛川城二の丸にある御殿は江戸時代後期の文久元年(1861)に再建されたもの。
現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数か所しかない貴重な建築物で国の重要文化財です。
書院造と呼ばれる建築様式で、畳が敷きつめられた多くの部屋が連なり、各室は襖によってしきられています。
御殿は藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政治をつかさどる役所という3つの機能をあわせもった重要な施設でした。
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掛川城が出てくる作品で有名なのは、司馬遼太郎の「功名が辻」ですね。
一豊の妻の有名な逸話がわかりますよ。
掛川城の公式ホームページがありますので、のせておきます。
美しい写真や歴史が書いてありますので、良かったらどうぞ。↓↓
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*掛川城詳細
営業時間:2月1日~10月31日午前9時から午後5時まで/11月1日~1月31日午前9時から午後4時30分まで
休業日:12月30日から翌年1月1日まで
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【参考文献】
平井 聖監修『4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)他
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