日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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かるーいお城の雑学(その18)大名の改易・転封

外様の蒲生・加藤家が築城整備し、親藩の保科家の城となった会津若松城 by:photo-ac

日本全国にあるお城。見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」です!

今回は、大名たちの改易や転封に関してみていきましょう。

 

*改易・転封とは

先に簡単に言葉の意味を説明します。

  • 改易(かいえき):お家取り潰し。江戸時代には武士の所領や家禄・屋敷を没収し,士籍から除くことをいう。蟄居(ちつきよ)より重く、切腹よりは軽い刑罰。
  • 転封(てんぽう):国替え、移封(いほう)と同じ意味。大名の領地を他に替えること。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、全国を支配下においた徳川家康は、石田三成の西軍についた武将の領地没収と全国レベルでの国替えを行いました。

そして、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」と翌元和元年の「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼすと、すぐに「一国一城令」「武家諸法度」を公布。

大名の「改易」と「転封」という大名統制策を行ない、徳川幕府の礎を固めていったのです。

豊臣家を滅ぼすまでは大坂城を取り囲むように譜代大名を中心に転封させ、豊臣家滅亡後は九州や四国などの西国外様大名の押さえ、また、徳川大坂城警護のために譜代大名を転封させます。

これら一連の施策によって、城および領地は大名家のものではなく、徳川幕府のものであり、そこに配された大名にとっては、城も領地も徳川幕府からの預かりものでしかないことを、天下に知らしめたのです。

何人も、幕府の許可なく、藩で城を勝手に建築したり修理したりすることは許されませんでした。

もしも勝手に修理すると、安芸国広島城の石垣を直した福島正則のように改易されてしまいます。

このように、およそ260年続いた安定政権江戸幕府の裏では、多くの大名が改易や転封の憂き目にあいました。

自業自得であったり陰謀によるものであったりと理由はさまざまですが、その総数はなんと250家にものぼるそうですよ。

 

*改易

「改易」は、お家断絶であり、領地などすべてを没収されます。

先ほど言葉の意味で「切腹よりは軽い」と書きましたが、多くの場合に殿様は切腹を言い渡されたようです。

藩主家はもちろんのこと、家臣も家族ともども領地から追放され、藩主家だけでなく家臣と家臣の家族までが生活基盤を奪われてしまいます。

たとえば、元禄14年(1701)3月14日に江戸城中で刃傷事件を起こした赤穂藩浅野家の場合をみてみましょう。

『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』によると、当時赤穂藩は5万石、家臣総数1069名だったそうです。

家臣の家には家族や家士などもいますので、一軒に7、8人が住んでいたとして約8,500人もの人々が、一挙に路頭に迷うことになったわけですね。

これは大変なことですよ。

したがって、江戸時代はお家取り潰しにならないことが本当に重要でした。

殿様から家臣に至るまで、なりふり構わず「お家大事」を推進、家を守ることを何よりも優先していたのです。

改易の理由でもっとも多かったのが「世嗣(せし)断絶」だったようです。

つまり、後継ぎがいないということですね。

藩主が亡くなった時、幕府に届け出た跡継ぎがいなくては改易になります。

藩主が危篤になってから江戸幕府に養子の迎い入れを願い出る「末期(まつご)養子」は、許されてはいませんでした。

そのために多くの家が改易されています。

藩主が元気なうちに後継ぎを決め、届け出ておく必要があったのですね。

したがって、藩主は正室だけでなく側室を置き、たくさんの跡継ぎが生まれることを目指していました。

赤ちゃんの死亡率も高かった当時、子沢山であろうとしたのにはそれなりの理由があったのです。

赤穂城    by:photo-ac

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*転封

では、移封、所替え、国替えとも呼ばれた「転封」はどうでしょうか。

織田信長や豊臣政権下でも、信長や秀吉から攻め取った領地が家臣の武将に与えられ、その領地を治め、新しく城を築くことが認められていました。

また、そのエリアを信長や秀吉が支配するために家臣に国替え・領地替えを命ずることももちろんありました。

その最大のものは、秀吉による家康の転封です。

秀吉は小田原城を落とし北条氏を滅ぼした後、徳川家康から三河遠江駿河の領地を取り上げ、上方から遠くの関東へ家康を転封させています。

その結果、江戸幕府は関東にあるわけですよね。

関ヶ原の戦いの後は、論功行賞や懲罰の意味の転封はもちろんありましたが、それ以上に、徳川幕府が日本全体をどのように統治していくのかという政治的な判断からなされたと思います。

いずれにせよ、転封は突然命じられることが多いうえにその命令を大名は拒めないため、藩内は大混乱に陥りました。

命令を受けた大名は、城と所領を引き渡すとともに、転封先の大名からは城と領地を受け取るのですが、その準備には半年近くかかったようです。

それに転封(国替え)は、単身赴任か家族で引っ越しする現在のサラリーマンと違って、すべての家臣とその家族を連れて移動します。

文字通り、政治の中枢がまるごと移動するのですね。

そして、国替えが石高加増の場合(加封)はまだしも、減封のときは非常に大変でした。

なぜなら全員を連れていけないため、家臣の一部は首切りせざるを得ない状況になるからです。

会津若松城の城主であった上杉景勝関ヶ原の戦いの後、120万石の大大名から3分の1の30万石に減らされたうえに、米沢に転封します。

このとき上杉家は、約6000人の家臣を一人も首切りしなかったと伝わっています。

これは大変なことですよ。

石高が3分の1になると、リストラされなくても俸給は大幅に減額されます。

武士の身分を捨てて商人になったり、浪人して他家に仕官したりする人も多かったのではないでしょうか。

それに原則、家臣全員が引っ越していくのですから、引っ越し費用は馬鹿になりません。

引っ越し先が遠ければ遠いほど費用がかさみます。

生涯に7回もの国替えをさせられた「引っ越し大名」こと実在の譜代大名・松平直矩(なおのり)が、姫路藩15万石から豊後国日田藩7万石へ国替えを命じられたことを映画にした「引っ越し大名!」(2019年公開)をご存じでしょうか?

松竹映画「引っ越し大名」ポスター

画像出典:松竹公式サイト「引っ越し大名」

この映画は、松平直矩(なおのり)をモチーフとした土橋章宏(あきひろ)の小説『引っ越し大名三千里』が原作だそうです。

国替え担当の引っ越し奉行が激務のため死亡し、その後に本ばかり読んでいた若い書庫蕃が任命されます。

引っ越し奉行になった彼は、家老であろうが身分に関係なくそれぞれの家にある高価なものはどんどん売り払らわせ、引っ越し費用に当てていました。

映画だから面白く描かれていますが、実際は大変ことだったろうと思います。

松平直矩は、大野藩の藩主松平直基(なおもと)の長男として出生し、2歳のときに大野藩から山形藩へ転封しています。

そして4年後に姫路藩へ国替えの途中で父直基が死去し、父の跡を継ぎ姫路藩主となりました。

しかし、西国の要である姫路藩を治めるには幼い藩主直矩では難しいと判断されたため、翌年村上藩へ移封となります。

そこで成人した直矩は、18年後の寛文7年(1667)に再び15万石の姫路に戻ります。

そして次の転封は、親戚のお家騒動に連座したことによって、天和2年(1682)に日田藩への減封でした。

このときの転封が映画化されたのですね。

貞享3年(1686)には、3万石加増されて山形藩10万石に再び転封。

その6年後、5万石を加増され白河藩15万石の大名として転封。

これが最後の引っ越しですが、3年後の元禄8年(1695)に直矩は死んでしまいます。

54年の生涯はまさに引っ越しに振り回された人生であったといえます。

しかし、殿様は江戸にいて用意された藩の屋敷に行くだけだから良いのですが、家臣はたまらなかったでしょうね。

 

関ヶ原の戦い後の転封

関ヶ原の戦いのあと、大坂城に入った徳川家康は戦後処理にとりかかります。

西軍に参加した諸大名を改易・減封に処し、東軍に参加した諸大名への論功行賞を行いました。

このときに改易となった大名は、実に88家だそうです。

命は助けられましたが減封となった大名は、毛利家(120万石から36万石)、上杉家(120万石から30万石)など5家ありました。

敗者となった西軍の大名や日和見を決めていた大名たちは、改易は免れても石高を減らされての転封です。

一方、関ヶ原の戦い徳川家康軍について、大幅に加増された外様大名もいました。

たとえば細川忠興宮津18万石から小倉39.9万石に、田中吉政は岡崎10万石から柳川32.5万石に、堀尾忠氏は浜松17万石から松江24万石に、中村一忠は府中14万石から米子17.5万石に、そして山内一豊掛川7万石から土佐20.2万石になっています。

いずれも大幅な加増となっていますが、江戸から遠くの領地へ追いやられています。

「加封(かほう)」はされましたが、江戸や京都、大坂から遠く離れた土地への「移封」です。

細川忠興以外は、いずれも家康が関東に移封されたあと、家康に備え東海道の要衝に配された秀吉子飼いの武将たちでした。

家康は、いくら自分に忠誠を誓って東軍につき活躍した大名といえども、その力を恐れたのでしょうね。

わざわざ遠く辺境の地に配したのは、「遠島の刑」に処したとなんら変わらないと、私は思います。

その後には、徳川親藩譜代大名が転封されてきました。

土佐の国主山内家20万石の高知城

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大坂の陣前後の大名の転封

静岡駅北口 徳川家康像     by:photo-ac

大坂の陣の前には、豊臣秀頼大坂城の包囲網として丹波篠山城丹波亀山城伊賀上野城に信頼できる大名を移封しました。

そして大坂の陣に勝利すると、今度は徳川大坂城の守護・西国大名牽制のために、福山城尼崎城岸和田城高松城などに譜代の大名を転封させています。

これ以後、外様大名などの大幅な転封はあまり行われなくなってきます。

参勤交代などで充分大名を支配できるようになり、幕藩体制の維持のためには外様大名などの無用な転封は出来るだけ避けたかったからでしょう。

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*転封を阻止した例

大名に転封が申し渡されると辞退はできませんが、この転封命令が撤回された唯一の事例があります。

天保11年(1840)に、幕府は庄内・長岡・川越三藩に「三方領地替え」を命じました。

庄内藩の藩主・酒井忠器(ただかた)を長岡へ、長岡藩主・牧野忠雅(ただまさ)を川越へ、川越藩の松平斉典(なりつね)を庄内への転封でした。

しかし、この申し渡しに庄内藩の領民は盛大な拒否反応を示したのですね。

領民は藩主が替わることを拒否し、転封を阻止するべく行動を起こします。

天保義民事件」といわれる一揆です。

庄内の地は、酒井家が200年以上代々守ってきた土地で、藩主・酒井忠器は領民に大変慕われていました。

酒井家が移封することを断固として阻止しようと領民が立ち上がり、江戸幕府に直訴する行動に出たのです。

この事件の顛末は、安藤氏の『お殿様の人事異動』の第Ⅵ章「国替えを拒否したお殿様」や藤沢周平の『義民が駆ける』(新潮文庫)に詳しく書かれていますので、ここでは紹介はしません。

面白い小説ですので、是非読んでみてください。

この事件においては、一揆をおこした領民たちは咎めなし、転封も撤回される形で決着がつきました。

理由の如何を問わず、一揆を起こしたものは死罪となる時代だったにもかかわらず、領民に何のお咎めもなかったとは驚きですね。

幕府の命令が領民の意思で覆るという、とんでもないことが実際におこった事件でした。

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また、今回、この記事を書くにあたって参考にした2冊の本を簡単にご紹介しておきます。最近の本ですので入手するのは難しくないと思います。

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安藤雄一郎のこの本は、「徳川幕府の将軍が大名に行使した国替えという人事権、殿様と呼ばれた大名や旗本を対象とする人事異動の泣き笑いを通して、現在にも相通じる江戸時代の知られざる裏側に迫るもの」(4p)です。

この本によって、初めて知ったことが多くありました。

たとえば、転封が決まると国替えが命じられた藩同士が綿密な打ち合わせをすることや、その準備を江戸藩邸が中心となって進めたことなどです。

興味深い本でしたよ。

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この本には、密貿易がばれて改易となった大名はいざしらず、仮病で参勤交代をさぼり、鷹狩りにふけっていたことがばれて改易、夫婦喧嘩がエスカレートして改易、参勤交代に遅刻して改易、農家の人妻に手をだして転封になった大名など、じつにさまざまな理由で改易・転封となった話がたくさん紹介されています。

面白い本でした。

また、改易された大名の末路や家臣のその後など、興味深かい話が満載ですよ。

ぜひ手に取ってみてくださいね。

(by:photo-acと入っていない写真は著者が撮影しています)

 

【参考文献】
安藤優一郎『お殿様の人事異動』(日経プレミアシリーズ420 日本経済新聞出版社 2020年3月23日三刷)、山本博文監修『大名の「お引っ越し」は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎 』(実業之日本社 2019年9月10日初版第1刷発行)、『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』(新人物往来社 1997年8月26日発行)他