日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書いていきます

お城大好き雑記 第67回 福岡城

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福岡城   by:photo-ac

福岡城は、名築城家・黒田孝高(よしたか 通称勘兵衛、後の如水)とその息子・長政(ながまさ)が築いた九州随一の大城郭の平山城です。

東の博多と西の福岡。

現在まで引き継がれている福岡市中心部のこの地割は、福岡城の築城によって出来上がりました。

日本100名城」(第85番)に選定されており、別称は舞鶴です。

私が登城したのは2004年2月14日のことでした。

 

慶長6年(1601)、黒田長政関ケ原の戦いの功により、筑前1国52万石が与えられ、築城途上の中津城から移ってきました。

はじめは現在の福岡市東区にある名島(なじま)城に入城しましたが、安定した時代において領国を治めるのに名島城は適していないと考えたようです。

また、52万石の大大名にふさわしい城郭を築く必要がありました。

当時大阪の堺と並ぶ大貿易港であった博多に近い福崎の地を選び、新しく城を建設します。

そこは古代、大陸からの賓客を迎える迎賓館・鴻臚(こおろ)館が置かれていた場所でした。

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鴻臚館跡発掘調査中   by:photo-ac

それから7年掛け、慶長12年(1607)に驚くほどの早さで美しい城が完成しました。

このスピードは長政に励まされた家臣が競って工事を行った結果であり、名築城家の加藤清正までが感心したという話が伝わっていますよ。

この福岡城の手本になったのが、朝鮮にある城・晋州(しんしゅう)城

晋州城は朝鮮出兵のときに黒田・加藤・小早川などの武将が猛攻をかけても落城しなかった難攻不落のお城ですね。

新しい城は、黒田氏の出身地である備前(びぜん)邑久(おく)郡福岡郷にちなんで福岡城と名付けられました

以来那珂(なか)川を境として、西側の城と武家屋敷街が「福岡」、東側は古来の博多の津を継承した商業・経済の中心地で「博多」と呼ばれるようになりました。

博多っ子は今も博多どんたくや博多山笠に熱狂し元気な姿を見せています。

 

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福岡城玄界灘を望む低い丘陵上、陸海交通の要衝の地にあります。

北側は海、南側は赤坂山、東は石堂川、西は樋井川を擁する地形で、本丸を中心に北、東、南を囲むように二の丸が置かれました。

さらにその北、西を巡る形で三の丸が置かれています。

周囲を幅が広い内濠が巡らされた大城郭でした。

特に現在大濠公園となっている濠は、入江を利用した大規模な濠でした。

本丸、二の丸はすべて石垣で築かれ、使用した石材は新たに切り出したもののほかに名島城の石垣や元寇防塁の石などが転用されたそうです。

櫓は大小47基、本丸南面には二重多聞櫓の両側に三重櫓のある武具櫓が建てられていました。

南二の丸には南三階櫓などが立ち並び素晴らしい景観だったようです。

潮見櫓は、本来は三の丸北西隅にあり、その名のとおり入江だった西側の大濠を見張るための櫓だったと言われていましたが、現在その説は疑わしいものとなっています。

潮見櫓は明治になって黒田家別邸に移されていましたが、昭和31年(1956)に現在の大手門脇に移築されました。

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福岡城伝潮見櫓と下の橋大手渡櫓門   by:photo-ac

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伝潮見櫓  by:photo-ac

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福岡城址の石垣  by:photo-ac

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城内から見た多聞櫓と隅の二重櫓  by:photo-ac

南二の丸(南の丸)西側石垣上に慶長12年(1607)に建てられた多聞櫓です。

その長さから三十軒櫓とも言います。

現存するものは嘉永7年(1854)に再建されたもので、重要文化財に指定されています。

右端の二重二階の北隅櫓は昭和50年(1975)に復元されたものです。

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多聞櫓に向かって左端にある二重隅櫓 by:photo-ac

徳川家への遠慮から天守台だけを作り、天守自体は建てられなかったという説がこれまで一般的でした。

しかし最近になって明らかになってきたことは、実際は天守が作られていたにもかかわらず元和6年(1620)頃に取り壊されたという話です。

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天守台石垣と礎石  by:photo-ac

大阪夏の陣で豊臣家が滅亡したあと、元和元年(1615)に一国一城令武家諸法度が出され、広島城福島正則が改易されたことを皮切りに次々と大名が転封されています。

元和年間(わずか9年間)には33件もの大名が転封されているのですね。

黒田家も福島正則と同じ豊臣恩顧の大名でしたので、徳川家に無用な嫌疑をかけられることを恐れ、もはや無用の長物となった天守を自ら取り壊したのではないでしょうか。

私にはそう思われて仕方がありません。

写真で分かるように礎石があるのですから、天守を立てなかったとすると石垣のみ築いて礎石などは置かなかったでしょう。

天守が建てられていれば熊本城天守と同規模の大天守だったようです。

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天守台から見た大濠公園方面の景色  by:photo-a

黒田家は福岡城築城とほぼ同じ時に、筑前六端城(ろくはじろ)と言われた六つの支城も築き、不安定な国境防備を図っていました。

若松城

・黒崎城

鷹取山

・益富(大隈)城

・小石原(松尾)城

・左右良(までら)城

以上の6つですね。

しかし、すべてを一国一城令で壊しています。

黒田氏は、その後お家騒動などがあったものの、12代長知(ながとも)までの250年あまり藩主として居城し明治を迎えます。

 

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城郭の本丸周辺が舞鶴公園、そして大濠は大濠公園としてそれぞれ市民の憩いの場となっています。

公園内に発掘された鴻臚館跡の展示館もありますよ。

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by:photo-ac

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大濠公園  by:photo-ac

まるで湖のような巨大な濠ですよね。

 

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移築された名島門   by:photo-a

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本丸祈念櫓  by:photo-ac


福岡城詳細

・住所:福岡県福岡市中央区城内

・アクセス:大濠公園駅から徒歩で5分

・営業時間:常時公開(福岡城むかし探訪館は9~17時、堀石垣保存施設は毎土日曜10~17時公開)

・休業日:なし

 

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【参考文献】

平井 聖監修『城 8 九州 沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)『城其の三』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(正東社 2007年7月15日発行)中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)他