
今年、2026年(令和8年)のNHK大河ドラマは、「豊臣兄弟!」です。
豊臣秀吉の天下取りを支えた3歳下の弟・秀長を主人公とするドラマですね。
秀長は、豊臣政権のもとで徳川家康や伊達政宗など多くの戦国武将との難しい調整役を果たし、政務・軍事面で大活躍をして、秀吉を天下人にした戦国武将です。
「究極のナンバー2」、「天下一の補佐役」といわれました。
秀吉ゆかりの城は、「豊臣秀吉の城」として、2020年12月20日に公開していますので、そちらをご覧ください。
今回は、武将としては表舞台に出ることの少なかった弟・豊臣秀長ゆかりの城を取り上げます。
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*豊臣(羽柴)秀長〈天文9年(1540)~天正19年(1591)〉
木下秀長は兄の秀吉とともに織田信長に仕え、多くの戦いに参加、秀吉の参謀として活躍します。
今回は、秀長の生涯を辿りながら、秀長が城主だった城を順番に紹介していきますね。
秀長の別名は小一郎ですが、織田信長から偏諱(へんき※)を受けて「木下小一郎長秀(ながひで)」と名乗っていました。
木下秀吉が、天正3年(1575)に「羽柴」の姓を名乗るようになると、長秀も「羽柴小一郎長秀」と称するようになります。
天正5年(1577)から始まった秀吉の中国地方の攻略では、秀長は秀吉が率いる本隊とは別に編成された軍勢の大将を努めます。
長秀は、但馬国(兵庫県北部)を攻略し、但馬2郡を与えられ、竹田城に入り、城代となっていますよ。
ちなみに、天正4年に、後に名築城家となる21歳の藤堂高虎が長秀に仕官して、300石で家臣となります。
その後、藤堂高虎は軍功をあげ順調に加増・出世していき、秀長が大和郡山城で亡くなるまで、秀長の右腕として活躍し、秀長を支えました。
※偏諱:(貴人)の諱(いみな 本名)の二字のなかの一字を賜って名前とすること。
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①竹田城(兵庫県朝来市)

このとき、長秀が竹田城を修築したかどうかは明らかではありません。
歴史的には、長秀入城8年後の天正13年に、播磨国龍野城主である赤松広秀が代わって入城し、大改修したことになっています。
しかし、城郭考古学者の千田嘉博氏が、ある番組で竹田城の現地での発掘調査に基づいた復元映像の竹田城について、豊臣秀吉ゆかりの城と考えられるというような話をされていた記憶があります。
藤堂高虎が、家臣として傍にいましたので、竹田城に何らかの修築をしていると考えてもおかしくないと私は思います。
長秀は竹田城を本拠として、秀吉に従って三木城や鳥取城の攻城戦に従軍。
また、天正10年の本能寺の変で織田信長が倒れ、山崎の戦いで秀吉が明智光秀に勝利すると、長秀は光秀の領地だった福知山領も治めることになりました。
天正11年には、秀吉は賤ケ岳の戦いで柴田勝家に勝利、天下人へ道を歩み始めます。
長秀は、美濃守に任官して「羽柴美濃守長秀」を名乗り、播磨国(兵庫県南西部)と但馬の一部を拝領し、姫路城を居城としました。
②姫路城(兵庫県姫路市)

この頃の姫路城はもちろん、現在の姫路城ではありません。
城主だった黒田孝高(よしたか 後の官兵衛)が中国攻めの秀吉に差出し、秀吉が黒田と浅野長政を築城奉行として大改修し、三重の天守を建造した姫路城です。
弟の秀長は、天正12年の徳川家康との小牧・長久手の戦いにおいて、秀吉の本隊とは別編成軍の大将を務めています。
この頃に、秀長は兄・秀吉の偏諱を受けて「羽柴秀長」を名乗り始めました。
秀長は、秀吉軍の副将を務め太田城など攻撃、紀州攻略後には紀伊国(和歌山県)、和泉国(大阪府南西部)を与えられます。
秀長は、藤堂高虎を普請奉行に任命して和歌山城の築城を命じ、完成すると居城を和歌山城に移しました。
③和歌山城(和歌山県和歌山市)

秀長時代の和歌山城は、紀ノ川と和歌川に挟まれた虎伏山山頂(標高48m)に本丸が置かれ、南側の麓に二の丸が置かれていました。
同天正13年、秀長は、四国を制圧した長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)討伐軍の総大将を務め、元親を降伏させます。
その軍功により大和国(奈良県)を加増されて73万石の大大名となります。
秀長は、筒井順慶(つつい じゅんけい)の大和郡山城を修築・大改修して入城し、あらたに居城としました。
和歌山城には、家臣の桑山重晴(しげはる)を城代におきます。
④大和郡山城(奈良県大和郡山市)

秀長は、大和郡山城に入城すると、城下町の整備を行いました。
奈良から商人などを移住させ、奈良での商売を禁止します。
大和南部や紀伊熊野なども平定して強大な寺社勢力を抑え込み、大和国・紀伊国を完全に制圧したのですね。
大和郡山城の追手櫓門は昭和58年(1973)に再建され、桝形虎口を構成している反対側にある二重二階の追手向櫓は昭和62年に再建されました。

絵図や文献上で天守の存在を証拠づけるものが見当たらないため、秀長時代の大和郡山城には天守は存在していなかった、というのが従来の定説でした。
ところが、平成25年からの天守台石垣の修復のために発掘調査を始めたところ、天守の礎石列や金箔瓦が発見され、華麗な天守が建造されていたことが確認されました。
100万石に近い領地をもち、天下人・豊臣秀吉の弟で、藤堂高虎を家臣にもつ秀長の居城に「天守はなかった」とするほうがおかしいと思いますね。
大和郡山城の天守台や本丸石垣には、明智光秀が築城した福知山城と同じように、たくさんの転用石が使われていることでも有名です。
天正15年の九州攻めでは先陣の総大将を務め、島津氏征伐に大きな働きをします。
その後「従二位権大納言」に栄進し、大和国・紀伊国・和泉国の3か国と河内国の一部で100万石を領する大大名として「大和大納言」とも尊称されます。
しかし、天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐前後から、秀長の病が悪化。
段々と重くなり、翌年1月に大和郡山城内で病死します。
52歳でした。
歴史に「もしも」はないのですが、太閤秀吉にも異を唱え、秀吉を制御できる人物であった秀長が長生きしていれば、太閤秀吉の後年の狂気じみたことはなかったかもしれませんね。

秀長が城主を務めた姫路城には、関ケ原の戦いの後、家康が、次女の督姫(とくひめ)と再婚した池田輝政を入城させています。
西国の外様大名を抑え込むためですね。
和歌山城は、御三家紀州徳川家の居城として、同じく連立式天守が建造されています。
同じ形の堅城の大城郭です。
そして大和郡山城には、五代将軍綱吉の側用人として権勢をふるった柳澤吉保(よしやす)の息子・吉里(よしさと)が、享保9年(1724)に甲府15万石から郡山藩主として転封してきます。
吉保は、徳川一門しか城主になれなかった甲府城の徳川以外の初の城主でした。
豊臣(羽柴)秀長は、関西の要衝の地の城主を務め、太閤秀吉にとっては単に弟という意味ではなく、前期豊臣政権を支える、なくてはならない重臣であったことがわかりますね。
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【参考文献】
公益財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社発行、)同『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス発行)、「城 解説編」(日本改定通信教育連盟)、『日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、 横山高治『藤堂高虎』(創元社 1992年11月10日第1版第4刷発行)、黒田基樹監修 TJ MOOK『大河ドラマ豊臣兄弟! 豊臣秀長とその時代』(宝島社 2026年1月15日発行)他