
第150回は、近江国(滋賀)と越前(福井)の国境にある玄蕃尾(げんばお)城です。
*玄蕃尾城とは?
羽柴秀吉と柴田勝家が、織田信長の後継者争いとして近江と若狭の国境付近で戦った「賤ケ岳の戦い」は天正11年(1583)のことでした。
その前年に、柴田勝家が、北国街道を見下ろす軍事上の要衝であった標高約430mの内中尾山(うちなかおやま 柳ケ瀬山とも呼ばれる)の山頂に、本陣として築いた山城です。
免許を持たず、車の運転ができない私としては大変攻城しにくい山城ですが、毎日新聞旅行社主催の城郭ツアーに参加して、2025年4月19日に初攻城してきました。
地元の敦賀市刀根に伝わっている話では、玄蕃尾城の名前は「柴田勝家の重臣・佐久間玄蕃允盛政(さくま げんばのじょうもりまさ)に因む」と語り継がれているそうです。
別称は、内中尾山城。
「続日本100名城」(第140番)に指定、国の指定史跡にもなっています。
*玄蕃尾城の歴史(築城から廃城まで)

林道の終点にある小さな駐車場から30分ほど登ると、下の写真の分岐点につきます。
今も残る軍道をたどり南に行けば陣城の行市山(ぎょういちやま)砦や別所砦に行けるようです。
そこから急坂をもう少し頑張って上がり、ようやく玄蕃尾城跡にたどり着きました。

羽柴秀吉は、余呉湖と木之本付近に9つの砦を築き北国街道を封鎖。
一方柴田勝家は、近江、若狭の国境にある山の稜線上に9つの砦や軍道を造り、琵琶湖北部への進出を図りました。
玄蕃尾城は、対秀吉との戦いに備えて勝家によって築城されたのですが、勝家は戦わずしてこの城から撤退します。
そして、北庄城に敗走のあと自刃、秀吉が天下を取りました。
玄蕃尾城はその後使われることなく残り、築城当時のままに良好な形で保存されました。
現地に設置されている説明板によると、「極めて限定された時期の城郭であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の標式遺構として重要であること、遺構が良好に遺存していることなど」と、史跡指定の理由が書かれていました。
史跡指定理由にあるように、玄蕃尾城址には、高土塁に囲まれた曲輪や、馬出、空堀などが、築城当時のまま残っています。
玄蕃尾城は縄張り的にも非情に高度であり、織豊期の典型的な陣城の実態を知ることができる、城郭研究上極めて重要な城址といえるようです。
*玄蕃尾城|現存する遺構・見どころ

玄蕃尾城は、約1m前後の土塁に囲まれた主な郭を南北に四つ並べ、主郭の前と後に馬出郭を置いています。
各郭の外側は幅5~7mの空堀で区切られており、それぞれの郭は土橋で繋がれています。
この出桝形の③馬出郭は主郭の虎口を隠しながら、三方に横矢が掛けられるように突き出た形です。
また、この馬出郭の前に②虎口郭が構築されていますね。
これもいわゆる馬出となっており、大手口の前面は馬出が連続する「重ね馬出」という高度な築城技術だそうです。
主郭の東側は、深い横堀が掘られ土橋で⑦張出郭と結ばれています。
この郭は、北国街道へ下れる谷筋を防御するために造られた郭であると考えられています。
玄蕃尾城の南側は秀吉軍に面しているため、防御や攻撃を強く意識した複雑な構造ですが、北側は勝家側の為なのか防御のための施設はありません。




方形の主郭は、周囲を高土塁と空堀で囲まれています。
南北にそれぞれ一か所設けられた虎口はどちらも喰い違いで、土橋で外桝形の馬出曲輪と繋がれています。
北東隅には櫓台が設けられていました。
礎石が発見されていることから、物見台のようなものが建造されていたと考えられています。




城内では一番広い⑥郭2は、勝家の領地からの補給ルートのための郭であり、物資の集積地や城兵の駐屯地として使われたと考えられています。

(写真ははすべて作者が撮影)
*玄蕃尾城詳細
・アクセス:JR北陸本線・木ノ本駅からコミュニティバス柳ヶ瀬線に乗り「玄蕃尾城」バス停下車、登山口から約1時間30分
・営業時間:24時間
・休業日:なし
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【参考文献】
小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、「国指定史跡 玄蕃尾城(内中尾山城)跡」(玄蕃尾城跡保存会 敦賀市教育委員会 R2.3発行)、「史跡 国指定 玄蕃尾城跡」(滋賀県教育員会事務局文化財保護課 平成16年3月)、中井均「滋賀文化財教室シリーズNo.201号 近江の古城Ⅳ 玄蕃尾城跡」(財団法人滋賀県文化財保護協会 2002年3月20日)他
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