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お城にざっくり関係ある雑学を語ります。
今回は、築城者ですね。
築城の名手と言われる人を挙げると、黒田如水、藤堂高虎、加藤清正、小堀遠州などでしょう。
今回は、何度も主君を変えたことから「変節漢」あるいは「走狗」などと言われ、歴史小説などでは否定的に描かれることの多い戦国武将です。
藤堂高虎(とうどう たかとら 弘治2年(1556)1月6日~寛永7年(1630)10月5日)。
戦国時代、安土桃山時代、江戸時代前期と生き抜いた彼を取り上げます。
藤堂高虎は、築城技術のなかで特に縄張法に精通し、土木工事に卓越した能力をもっていました。
直線を生かした石垣を高く積み上げることと濠の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比されます。
また、高虎が考案したといわれる層塔型天守も、下の階から上の階に規則的に逓減させて順番に積み上げる単純な構造に則っており、用材の規格化が容易でした。
飾りや見た目という無駄を削ぎ落し、短期間で築城を出来るように城郭建築の規格化を目指していたのでしょう。
それでは藤堂高虎の生涯に沿って、城主として築城した城郭を順に辿ってみます。
1、戦国時代
幼少期から体格の立派な子供で、15歳のときにはすでに身長が180cmあったそうです。
この時代、身長180cmはかなりの大男ですよね。
初戦は15歳の姉川の戦いでした。
高虎は初め浅井長政に仕えましたが、やがて浅井家を去り、21歳の時羽柴秀長の家臣となり1万石を領します。
天正15年(1587)の秀吉の九州征伐時の軍功で、1万石を加増され紀伊粉河2万石を領有します。
秀長の死後、幼弱な秀保に仕えましたが、文禄4年(1595)に秀保が死去すると40歳の高虎は剃髪して高野山に入り、出家しました。
2、安土桃山時代
彼の将才を惜しんだ秀吉は高虎を召喚、5万石加増して7万石の大名にし、伊予板島(現在の宇和島)の領主にします。
秀吉のもとにいたときに信長の安土城築城に参加して築城術を学んだと言われていますが、これが言ってみれば、重要な転機だったわけですね……。
高虎は板島丸串城の大規模な改修(後に宇和島城と改称)を行い、三重三階天守を築城します。
慶長の朝鮮出兵にも水軍を率いて武功を挙げ、帰国後1万石加増されて8万石の大名となり、大津城をもらい受けました。
日本100名城(第83番)・1996年7月16日登城
宇和島城は、今ではすっかり埋め立てられて築城当時の面影はありませんが、五角形の城郭の半分が直接海に面したいわゆる海城でした。
現在の天守は藤堂家の後藩主となった伊達家2代目伊達宗利(むねとし)が築城した三重三階層塔型独立式の天守です。
慶長3年(1598)の8月に秀吉が死去すると、高虎は次の天下人は徳川家康であると判断して家康に接近します。
これは文治派の石田三成に対する反感なのか、関ヶ原戦では東軍のための裏工作で活躍、家康軍に従って織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦しました。
9月15日の関ヶ原本戦にも参戦し大谷吉継隊と死闘を演じます。
また、脇坂安治、小川祐忠などの寝返り工作にも貢献したため、関ヶ原の戦い後に家康によって伊予今治20万石に加増移封されました。
加増とは言え、高虎は元秀吉の家臣(外様大名)でした。
そのため取り敢えずは四国に追いやって、高虎の本心を試したのではないかと私は思っています。
日本100名城(第79番)・1996年5月26日登城
今治城は、方形の本丸を中心とし、三重の濠に囲まれ、濠には海水を引き込んだ海城です。
直線的で反りのない高石垣が築かれています。
そして天守は日本初の層塔型で、高虎の発明です。
これが後の徳川系城郭の祖型を成す城になりました。
昭和55年の今治市制60周年記念事業として五重六階の望楼型模擬天守が再建、武具櫓は復元され、藤堂高虎像が建立されています。
3、江戸時代前期
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功績を挙げます。
家康は高虎に二心(ふたごころ)はない、自分に忠義を尽くす男と信頼し、慶長13年(1608)に伊賀一国と伊勢8郡の22万石に加増・移封します。
伊勢・津藩主となった高虎は津城を大改修、津城を築城します。
津城
続日本100名城(第152番)・1998年8月18日登城
津城は、今治城と同じように方形の本丸を内掘が囲み、その外側に二の丸と中堀が取り囲み、さらに三の丸と外堀が囲む輪郭式の縄張りを持つ城。
直線的な勾配の高石垣が築かれています。
方形の曲輪、多聞櫓、幅広い濠など、高虎の築城理論を反映した城郭です。
現在は、昭和33年(1958)年に戦後復興のシンボルとして三重隅櫓と藩祖藤堂高虎像が建造されています。
家康は高虎の能力、並びに忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用します。
慶長19年(1614)からの大坂の陣でも徳川側として参戦、自ら河内方面の先鋒を志願、長曾我部盛親隊との死闘に勝利します。
その功績により、高虎は32万石に加増されました。
日本100名城(第47番)・1998年3月21日登城
慶長13年(1608)筒井定次(つつい さだつぐ)の後入城した高虎は、大坂豊臣方との決戦に備えて伊賀上野城を修築。
西側に高石垣を築き、天守の建設も進めていましたが、完成間近に大暴風で倒壊しました。
しかし大坂の陣は徳川方の勝利に終わったため、天守は不要と再建されませんでした。
現在の天守は、昭和10年(1935)年に川崎克氏の私財により作られたものです。
木造で二重二階の小天守を伴った、三重三階の層塔型連結式模擬天守ですね。
内濠の高さでは日本一(伊賀上野城関係者の言葉)の、総高約30mを誇る直線的な美しい石垣が築かれています。
大坂城の内堀の高石垣と日本一の高さを競っていますが、表面上は決着がついていません。
確かにかなり高い…。
高虎は自分の居城以外にも天下普請を采配し、以下の築城でも重要な役割を担ってきました。
これらを通し、徳川家の総普請方とも呼べる地位を確固たるものにしていきたのです。
生涯に、築城、修築に関わった城は15とも23とも言われています。
家康は、大坂の陣で武功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたようです。
徳川家臣の多くは主君を度々変えた高虎を良く思っていなかったようですが、家康は高虎の実力と忠誠心を認め、晩年は特に高虎に信頼を寄せていました。
なんと臨終のさい、高虎は枕元に侍ることを許されているのですね。
徳川家の所縁の譜代大名でもないのに破格の扱いだと驚きます。
家康没後は秀忠、家光と徳川家3代の将軍に仕え、「補佐役の補佐役」という立場を貫き通し、幕府の影の重鎮として諸侯に睨みをきかせていました。
寛永7年(1630)の10月5日に死去、享年75歳。
この時代を生きた武将には多いことですが、彼の人生は間違いなく波乱万丈でしたね。
高虎は、何度も主君を変えた戦国武将として知られています。
江戸時代以降では仕える人を変えることはよくない印象を持たれますが、実際に彼が生きた時代には珍しいことではありませんでした。
江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の戦国時代の日本社会では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前だったからです。
何度も主君を変えることは、不忠でも卑しいことでもありません。
高虎自身「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言っております。
高虎は実力主義者で、自分の実力だけで生き抜いてきました。
自分を正当に評価しない主君からはあっさりと知行を捨てて離れ、新たな主君に忠義を尽くします。←この考え方は好きです。
また、高虎は徳川幕府の命で、会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらに加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて、それぞれの家臣団の対立を調停。
都合160万石あまりを統治します。
これらの大名家は高虎のお蔭で家名を保っていましたが、高虎の死後ことごとく改易されています。
【最後に言っておきたいこと】
藤堂高虎は名築城家として有名ですが、それ以上に彼は江戸時代初期の幕藩体制の創出に類まれな能力を発揮しています。
ここでは詳細に述べることは出来ませんが、藤田達生著『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎』(講談社現代新書 2006年3月20日第1刷発行)をお読みください。
目から鱗が落ちること請け合いです。
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【参考文献】
横山高治『藤堂高虎』(創元社 1992年11月10日第1版第4刷発行)、徳永真一郎『藤堂高虎』(PHP文庫 1990年10月15日 第1版第1刷)、藤田達生『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎』(講談社現代新書 2006年3月20日第1刷発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2018年5月7日第6刷発行)、中井均『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)他
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