日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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お城大好き雑記 第3回 備中松山城

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 天守(右)と再建された五の平櫓(中央)六の平櫓(左)  by:photo-ac

3回目の今回は、岡山県備中松山城についてです。

備中松山城は、現存する唯一で近世屈指の全国最高所にある山城、天空の城、三大山城として有名な城ですね。

次の写真で分かるように、雲海に浮かんで、朝日を受けた姿はとても美しいです。

城は、高梁(たかはし)市街をはるかに見下ろす臥牛山(がぎゅうさん)の南峰小松山山頂(標高約430m)に築かれています。

別称は高梁城、臥牛山

2006年に「日本100名城」(68番)に選定されています。

 三大山城岡山県備中松山城岐阜県岩村城奈良県高取城

 

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雲海に浮かぶ天守と二重櫓    by:photo-ac

 

備中国関ヶ原の合戦後、徳川の直轄領となって、国奉行として小堀正次が入封しました。

しかし備中松山城が荒廃していたため、城下の頼久寺で政務を取ります。   

父正次の後、慶長9年(1604)に息子の政一(まさかず)が継いで荒廃した城を修築し、近世城郭としての原型を整えました。

政一は築城家として名高い、小堀遠州です。

山麓の御根小屋(おねごや)の修築とともに、1606年頃から御山城と呼ばれた山上の城郭の改修に着手。

合わせて城下町の整備も進めました。

しかし、元和2年(1616)に政一は近江に移封となり、修築工事は未完となってしまいます。

その後、寛永19年(1642)に5万石で藩主となった水野勝隆(みずのやかつたか)は、城の本格的な修築に取り掛かります。

息子の勝宗(かつむね)は、天和元年(1681)から3年間かけて、現存する天守や多くの櫓を含む城郭施設の建築をして、近世城郭を完成させたとするのが定説です。

さらに、山麓の藩主の居館と政庁の一体となった根小屋、および城下町の整備を図り、山城・藩庁・城下町の三者一体となった近世城府がこうして完成します。

元禄6(1693)年、当時の城主であった水谷に後継ぎがなく三代で断絶した為、播州赤穂浅野内匠頭備中松山城の受け取りを命じられました。

その任に当たったのが城代家老大石良雄(内蔵助)です。

赤穂浪士で有名な、あの大石良雄

ここに登場!

 

備中松山城は、徳川幕府が始まって以後に、難攻不落の山城整備が行われた稀有の事例と言われていますよ。

天守の他、二重櫓、土塀が重要文化財で、城址は国指定です。

 

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備中松山城は、尾根伝いに本丸、二の丸、御膳棚、厩曲輪、三の丸などが階段状に連なっている連郭式の城郭です。

近世城郭としては数少ない本格的な山城ですが、高石垣と櫓を設けていました。

備中松山城縄張図」(「備中松山城パンフレット」より)

空から見た「備中松山城」(「備中松山城パンフレット」より)

 

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私が初めてここを訪れたのは1995年6月10日のことです。

JR備中高梁駅で降り、タクシーで臥牛山中腹の小さな駐車場(鞴峠 ふいごとうげ)まで行って、そこから歩いて登りました。

途中にある登城心得  by:photo-ac

結構な山道を息を切らしながら25分ほど登って行くと、大手門跡に着きます。

やっと城址に着いたと思った時に見たこの光景には、本当に驚かされました。

正面に高く聳えた巨岩や天然の岩盤を巧みに利用した石垣が「天然の要塞」であることを印象づけ、迫力ある姿で迫ってきます。 

圧巻です。

しんどい思いをして登ってきた甲斐があったというものです。

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そびえる石垣 by:photo-ac

大手門址         by:photo-ac

大手門址(櫓門形式だったことが記録で分るそうです)を抜け、石段を登ると正面に土塀が見えます。

遺構の「三の平櫓東土塀」です。

鉄砲狭間(丸形)と矢狭間(長方形)が、いずれも当時のまま残されていますよ。

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三の平櫓東土塀 by:photo-ac

備中松山城本丸   by:photo-ac

天守は、現存唯一の三大山城の天守

二重二階で最も低く(約10メートル)、層塔型の現存天守では最小の複合式天守です。

入口の付櫓を含めると内部は3階建てとなっています。

正面に唐破風付格子出窓、東面には入母屋造りの突出部が付けられ、下見板張りの白漆喰を施した凝った意匠の外観です。

小さいながらも、威風堂々たる天守らしい姿を見せています。

ほんと、格好良いですよね!

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天守 by:photo-ac

1階には天守のものとしては日本で唯一残っている「囲炉裏の間」や、「装束の間」という城主だけが入る一段高い部屋があります。

2階の正面には、一段高く唐戸で区切られた「御社壇(ごしゃだん)」を設けて守護神を祀っていました。

天守内部にある囲炉裏      by:photo-ac

二重櫓(手前)と天守(奥) by:photo-ac

1997(平成9)年に高梁市教育員会によって、文献資料や古写真を基に大規模復元工事が施されました。

五の平櫓や六の平櫓、本丸南御門、路地門、土塀が再建され、往時の姿を完全に取り戻していますよ。

私は1999年11月28日、その姿を確認する為に再訪しました。

その後、平成15年に天守及び天守の後ろにある二重櫓が保存修理されました。

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備中松山城址からの眺望   by:photo-ac

備中松山城城主さんじゅーろう   by:photo-ac

戦国時代の城主は、普段は麓の居館で生活をして政治を行い、いざ戦さという時は山上の城に立て籠もって戦いました。

こうしたスタイルの城郭を「根小屋式城郭」と言います。

江戸時代にはこうした城は殆ど無くなりますが、備中松山城では江戸時代以降もこうしたスタイルが採用されていたようです。

江戸時代の記録では、御根小屋は「下屋敷」とか「御殿」とかの表記も見られようですが、一般には「御城」と記されていました。

その跡は、現在県立高梁高校の敷地となっていますが、石垣や中庭は良好に残っています。

あたりは白い土塀が続く街並みとなっており、岡山県ふるさと村に指定されている武家町石火矢町(いしびやちょう)です。

高梁市武家屋敷館「折井邸」では見物が出来ますよ。

寺町から続く下谷町にある薬師院と松連寺は、高石垣の上に築かれ、まるで城砦を思わせる造りとなっています。

薬師院は昭和58年に男はつらいよ」のロケが行われたことで特に有名ですね。

 

また後世、京都の二条城庭園や桂離宮などの作庭を行った、遠州流茶道の祖であり、建築、造園にも優れた小堀遠州の初期作庭の庭が見られる頼久寺があります。

禅寺にふさわしい枯山水の頼久寺庭園は、現存する遠州流庭園の最高傑作。

立派な出城のような寺です。

頼久寺庭園    by:photo-ac

頼久寺や明治22年建築の岡山県最古の教会「高梁キリスト教会堂」など、高梁市には観光名所がたくさんありますよ。

ぜひじっくりと堪能してください。

 

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備中松山城詳細

住所:岡山県高梁市内山下1 

アクセス:JR備中高梁駅からタクシーで10分 下車、徒歩で20分 

見学時間:4月~9月9:00~17:30、10月~3月9:00~16:30

休業:12月28日~1月4日

入場料:無料

 

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 参考文献:『別冊歴史読本 城の見方・歩き方―身近な城を歩くためのガイドブック』(新人物往来社 2007年6月1日5刷発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、石井進監修『文化財探訪クラブ 城と城下町』(山川出版社1999年7月25日1版1刷発行)、『城』『同 解説編』(日本通信教育連盟)、「備中松山城パンフレット」他

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