23回目は、建てられてわずか3年で焼き払われましたが、かつては豪華絢爛だった滋賀県の安土城です。
安土城は、発掘調査によって判明しました。
復元整備された大手道や家臣団屋敷跡、石垣などが遺構としてみられます。
建物などはありませんが、是非訪れて欲しい城址です。
おすすめなのは、後述する駅前の安土町城郭史料館と「文芸の里」にある滋賀県立安土城考古博物館、「安土城天主 信長の館」で、予め安土城について学んでおいてから安土城を探訪すること。
そうすれば、ぐっと理解が深まるでしょう。
安土城へ初めて登城したのは1998年10月4日ですが、その後何回か探訪しました。
2006年に「日本100名城」(第51番)に選定されています。
安土山は、かつては琵琶湖に突き出た標高199mの小高い山で、琵琶湖の内湖(伊庭内湖、安土内湖)に囲まれ、南側だけが開けた地形でした。
岐阜城よりも京都に近く、北陸・東海を監視するのに適した、城を築くにふさわしい天然の要害です。
現在は干拓や水田整備によって農地に囲まれてしまい、当時の面影はありません。
織田信長像は安土駅前にもありますが、私が行った時は駅前が再開発中で信長さまはどこかに出張していらっしゃいませんでした。
そのため、金ぴかの有名なこの信長様にご登場願いました。
織田信長が、「天下布武」の象徴として天正4年(1576)正月から家臣の丹羽長秀(にわ ながひで)に命じて築城を開始した安土城は、天正7年「天主(安土城にかぎり天主と言う)」が竣工しました。
信長は5月11日天主に移り住みます。
内装まで完全に出来上がるのは天正9年(1581)の9月です。
翌10年6月2日の本能寺の変で信長は明智光秀に殺され、その直後の15日天守は炎上してしまいます。
わずか数年でこの地上から姿を消した、安土城はまさしく「幻の城」です。
****************************
安土城は、天守を持つ城郭建築としては日本では初めての城と言われています。
城に天守・石垣・瓦葺きをもたらした近世城郭の始まりの城です。
武将の威光を天下に示すための手段として築かれた豪華絢爛な天守。
まさに信長安土城の築城理念は、中世的世界を一新させる新時代の到来を告げました。
安土城の天守を信長は「天主」と呼んでいますが、そのはっきりとした理由は解明されていません。
しかし、信長は自らを「天」の「あるじ・しゅ」と考え「天主」を自分の居館として使っています。
実は驚くことに、城主として天守に住んだ武将は二人だけ。
信長と、この後大阪城に住んだ秀吉ですね。
この安土城の姿は『信長公記(しんちょうこうき)』や当時安土城を見聞した人が記録した文字の世界でしか、日本側の資料では分かりませんでした。
しかし信長は絵師・狩野永徳らに命じて安土城と城下町の様子を屏風に克明に描かせ、安土城の信長を訪れた巡察師ヴァリニャーノ神父に贈っています。
この安土城屏風がローマ教皇庁へ献上され、ヴァチカンに飾られたそうです。
しかし、その後この屏風は行方不明となり、現在も探索中。
幸いにも、これをフリップス・バン・ウインゲという人がスケッチを残していました。
彼のスケッチ画と日本側の記録類を突き合わせて復元すると、「天主」は五重六階地下一階。
外観五重の内一~三重の基本的な外装は、木部はすべて黒漆塗り、その他露出する壁は白漆喰仕上げです。
この白と黒のコントラストをフロイスは「この上ない美観✨」と言っています。
五階は八角形で法隆寺夢殿を模し、外柱が朱(赤)連子窓は緑(青)、最上階は正四角形の望楼で金閣寺を模して金箔押し、外側に高欄擬宝珠をつけた縁が付設されています。
そして軒丸瓦と軒平瓦の瓦当て呼ばれる文様の部分に金箔が貼られていました。
この瓦は発掘調査によって発見されています。
天主各階の部屋はいずれも金壁障壁画で飾られ、その障壁画には三皇五帝、孔門十哲、釈迦十大弟子などの聖人たちが描かれていたようです。
安土城址の向い、佐々木六角氏の居城だった山城の観音寺城址の麓にある「文芸の里」に、滋賀県立安土城考古博物館と「安土城天主 信長の館」があります。
1992年に「スペイン・セビリア万国博覧会」が開催され、日本館のメイン展示として安土城天主の5階6階部分が、内部の障壁画とともに原寸大で忠実に復元され展示されました。
万博終了後、その天主を安土町が譲り受けました。
庇屋根や「天井画天人影向図」金箔張りの外壁、金箔の鯱を載せた大屋根が取り付けられ、内部には狩野永徳に描かせた「金碧障壁画」も再現して、この「信長の館」に展示しています。
豪華絢爛な天主の姿を、今も目の当たりにすることができます。
豪華絢爛。
ほんとうに、煌びやかですね。
これがどーんと山の上にあり、まっすぐに道が続いていたならかなりの迫力だったでしょう。
平成元年(1989)から20年計画で発掘作業が行われ、想像を絶する雄大な戦国城郭の姿が浮かび上がりました。
私が初めて登城した頃は発掘作業の真最中で、作業中の横の臨時の道を通りながら登城(当時は無料でしたが、今は有料)しました。
琵琶湖の入江を背景に立つ天主、その天主に向かって中腹まで伸びる真直ぐな道幅8mの広い大手道は、まるで神社の参道のようです。
京都から天皇を迎え入れる時に、信長の天下統一の偉業を示す、言わば「見せる道」と言われています。
わかりやす~く権力を見せつけられますね。
安土山の中腹から麓に並んだ諸将の屋敷群を考えると、まさに安土山全体が華麗な戦国城郭そのものであったと想像できます。
二の丸跡にある信長公御廟は、豊臣秀吉が信長の一周忌に信長ゆかりの太刀や烏帽子、直垂などを埋葬して築造したと伝えられています。
写真中央の墓の一番上に置かれた自然石は、信長の化身として祀られたとされる石、「盆山(ぼんさん)」と関係があると考えられています。
JR安土駅前にある「安土町城郭史料館」には、実物の20分の1の雛型が制作され展示されています。
雛形は、加賀藩作事方御大工池上家文書中に安土城の「天守指図」という新資料が発見されたので、それに基づいて作られました。
その模型は真中で二つに割れて内部が見えるようになっていて、なんと中には地下1階から3階まで吹き抜けの空間が設けられ、真中に宝塔が設置されているのですね。
この模型を監修された内藤昌氏は「宝塔は、法華経にいう宇宙の中枢=須弥山の表現で、この安土城天主を天下の中枢と考え、その天下統一のシンボルとしたわけである。」と述べています。
また「その外観は、屋根5層廻縁望楼型の草創期天守の典型的様式を持っていた。内部は、天守台石垣上すなわち地上6階、石垣下穴蔵(石蔵)の地階を有し、都合7階であった。高さは、本丸地表より約46mに達し、わが国最初の高層建築といえる。」と紹介されています。
ただし西ケ谷恭弘氏をはじめ、安土城天守建築については違う考え方の城郭研究者もおられますので、ご承知おき下さい。
***************************
なお、安土城築城に関して、山本兼一氏の小説『火天の城』(文春文庫2004年)を原作とした映画が2009年に公開されました。
室町幕府の御大工を勤めた尾張熱田社出身の岡部又右衛門役は、俳優の西田敏行さんですね。
映画では信長の前で二人の城大工がプレゼンをします。
西田さんが演じる岡部又右衛門は、"この宝塔のある天守は中が空洞のため、火事の時には煙突の役割をしてあっと言う間に炎上する"と言上し、実際天守の雛型に火をつけます。
あっという間に燃え尽きた雛型を見て、信長は、岡部又右衛門の普通の天守プランを採用したという内容でした。
ちなみに安土城址をみに山へいくのであれば、入山料(700円)を払うところで枝で作った杖を借りられますので、ぜひ借りていきましょう。
なが~い石段は、膝と腰にきますよ。
こちらを見れば、いろんなことがよくわかって面白いのでのせておきます。
安土城の公式ホームページです。↓
▼関連記事
*安土城詳細
アクセス:ふもとまで安土駅から徒歩で25分・車で15分
営業時間:9:00~16:00 終了時間は季節により変動あり
休業日:無休だが、悪天候時などは入山禁止になる
【参考文献】
平井 聖監修『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)、「安土町立城郭史料館」、「安土城城郭史料館」「安土城天主 信長の館」パンフレット他
▼PR 基本料金タダですってよ!